ライブドア事件で問われるリテラシーとは?
2006年 01月 29日
今回の記事で、ライブドア事件をいったんまとめておきたい。
結局のところ、今回の事件の教訓というのは、私たちの「リテラシー」に尽きる。
それは、堀江貴文という存在をどう評価するということについて定見のないメディアの右往左往、はしゃぎ方とけなし方に端的に表れている。
メディアは思い出しているだろうか?フジテレビ会長の日枝が去年、ライブドアがニッポン放送の株式を大量に取得した際、「テレビの公共性」と発言した。あの言葉に、どれだけ多くの国民がシラけたか、ということをだ。
また、そこから距離を置いて眺めているはずの私たちの、堀江貴文に対する評価も割れている。無論、様々な見方があっていいとは思うが、ここで深刻な事実を指摘しておきたい。それは、彼を擁護するにせよ、批判するにせよ、説得力を持って評論する数の圧倒的な少なさである。その証拠に、彼を批判する人々は、彼がいったいいかなる「罪」に問われるべきかについて、だれもその具体的罪状を列挙できていない。擁護する側は、「破壊者」「風雲児」という言葉を用いはするが、抽象的でやはり具体性がない。
ライブドアに検察の捜索が入ったとき、六本木ヒルズを訪れた多くの人々はケータイで写真を撮り、ブログにアップした。それ自体は何ら悪いことではない。だが、結局のところそうした人々は、ケータイのファインダー越しにしか現実を把握していないのではないか。「ネットの自由」を謳歌しているはずの日本人の思考がいかに「不自由」なのかを象徴的に示してはいないか?
情報を「主体的」に受け止めることの大切さ、を今一度訴えたい。
当ブログでしばしば引用させていただくブログ「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」作者・47th氏は、こうした事件に接するたび、「自分が代理人だったらどう行動するか」ということを考えるという。つまり、情報を主体的に受け止めるということはそういう努力のことであり、その積み重ねが「いざ」ライブドア事件が勃発したときに活かされるということなのである。
そして、そうした努力はチンケな愛国主義的「教育基本法」改正などでは、決して教えられることはないだろう、ということも今一度、念を押しておく。
結局のところ、今回の事件の教訓というのは、私たちの「リテラシー」に尽きる。
それは、堀江貴文という存在をどう評価するということについて定見のないメディアの右往左往、はしゃぎ方とけなし方に端的に表れている。
メディアは思い出しているだろうか?フジテレビ会長の日枝が去年、ライブドアがニッポン放送の株式を大量に取得した際、「テレビの公共性」と発言した。あの言葉に、どれだけ多くの国民がシラけたか、ということをだ。
また、そこから距離を置いて眺めているはずの私たちの、堀江貴文に対する評価も割れている。無論、様々な見方があっていいとは思うが、ここで深刻な事実を指摘しておきたい。それは、彼を擁護するにせよ、批判するにせよ、説得力を持って評論する数の圧倒的な少なさである。その証拠に、彼を批判する人々は、彼がいったいいかなる「罪」に問われるべきかについて、だれもその具体的罪状を列挙できていない。擁護する側は、「破壊者」「風雲児」という言葉を用いはするが、抽象的でやはり具体性がない。
ライブドアに検察の捜索が入ったとき、六本木ヒルズを訪れた多くの人々はケータイで写真を撮り、ブログにアップした。それ自体は何ら悪いことではない。だが、結局のところそうした人々は、ケータイのファインダー越しにしか現実を把握していないのではないか。「ネットの自由」を謳歌しているはずの日本人の思考がいかに「不自由」なのかを象徴的に示してはいないか?
情報を「主体的」に受け止めることの大切さ、を今一度訴えたい。
当ブログでしばしば引用させていただくブログ「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」作者・47th氏は、こうした事件に接するたび、「自分が代理人だったらどう行動するか」ということを考えるという。つまり、情報を主体的に受け止めるということはそういう努力のことであり、その積み重ねが「いざ」ライブドア事件が勃発したときに活かされるということなのである。
そして、そうした努力はチンケな愛国主義的「教育基本法」改正などでは、決して教えられることはないだろう、ということも今一度、念を押しておく。
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by foresight1974
| 2006-01-29 23:16
| 正義の手続を考える