私は、価値観の異なる意見がどれだけ許容されているか?に尽きると思う。
それはただたんに1つの意見として存在しているだけではない。
「そのような意見がどうして存在するのか?」ということを、
相手に考えさせる機会、そして義務を負わせることも含まれる。
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「自主自律の観点でNHKに問題」 BPO検証委が意見
従軍慰安婦問題を民間人が裁く民衆法廷を取り上げたNHK番組の改変問題で、NHKと民放でつくる第三者機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の放送倫理検証委員会(委員長・川端和治弁護士)は10日、NHKが放送前に政治家に番組内容を説明した点などに「NHKの自主、自律の観点から問題があった」とする意見を出すことを決めた。意見書は今月中に出す予定。
この「ETV2001 問われる戦時性暴力」をめぐっては、01年1月の放送前に安倍晋三官房副長官(当時)と面会したNHK幹部がこの番組について説明したことが、東京高裁判決で認定されている。
さらに、05年当時のNHK放送総局長が「NHK予算は国会承認を得るとした現行法の下で、国会議員に事業計画や個別の番組について正確に理解してもらう必要がある。事前説明は当然」と記者会見で発言。NHK会長が「当然ではない。好ましくない」と後に修正したこともある。
BPOの検証委は、こうした事実をもとに議論。NHKの姿勢が、放送の不偏不党や自律を定めた放送法などに照らして、問題だったと判断したとみられる。
BPOは取材・制作のあり方や番組内容の問題点を審議し必要に応じて意見を出すが、意見に強制力はない。
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言論による侵害に対しては,言論で対抗するというのが表現の自由(憲法21条1項)の基本原理であるから,被害者が,加害者に対し,十分な反論を行い,それが功を奏した場合は,被害者の社会的評価は低下していないと評価することが可能であるから,このような場合にも,一部の表現を殊更取り出して表現者に対し不法行為責任を認めることは,表現の自由を萎縮させるおそれがあり,相当とはいえない。
(ニフティ「本と雑誌のフォーラム」事件・東京地裁判決平成13年8月27日)
自らの意思で社会に向かって発言する者は,当然,自己の発言・主張が反対の立場の者から批判され,反論されることを覚悟しなければならない。名誉毀損となる人格攻撃がされたとしても,批判や反論は,論争点に関連している限り,許容される。節度を越えたかどうかは,論争の聴衆によって判断され,論争の場に自ら身を置いた以上,批判には対抗言論で答えるべきであり,公権力を借りて批判を封じるようなことは,よほどのことがない限り許されない。
(ニフティサーブ「現代思想」フォーラム事件・東京高裁平成13年9月5日)
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首都から北西400キロ、チグリス川のほとりに広がる北部最大の都市モスル。様々な宗派や民族が幾世紀も共存してきたが、いま非イスラム教徒の少数派の脱出が続く。
古くから伝わる少数宗派ヤジディの信者、主婦バラン・ハルフさん(58)はモスルから25キロ離れたシェハーンという町に移り住んで2年近くがたつ。息子の工場が襲われ、信仰を同じくする従業員24人が殺されたからだ。
「早く逃げろ、と隣人が車を出してくれた。死んだ夫の写真すら持ち出せなかった」。11人の子供を連れ、32年住み慣れた町を出た。以来モスルには戻っていない。
昨年10月にはキリスト教徒の暗殺事件も起き、3週間でキリスト教徒1万3千人が逃げ出した。民主主義の物差しとされる少数者の権利が守られない状況が広がっている。
(朝日新聞2009年1月3日「〈連載―世界変動〉民主化、米国の挫折」より)
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興味深いのは、自民党案だけではなく民主党も賛成しており、社民党も理解を示しているということだ。改憲派は、批判のCMが直前まで流されることを恐れており、護憲派は、資金力で圧倒する護憲派のCMキャンペーンが直前まで大量に流されることを恐れている。
要は、テレビの影響力を双方とも恐れているのだ。
それでは問う。
そこまで批判やキャンペーンを恐れる憲法改正ってなに?護憲てなんだい?
批判に耐えられない憲法改正ならいらないし、キャンペーンで改正される憲法ならば、国民にととっては「所詮はその程度」ということではないか?郵政解散などという八百長にまんまと引っかかるような国民には、立憲主義など高嶺の花ということではないか?
などと、シニカルな疑問がいくつも浮かんでくる。
15秒しかないテレビCMでは、それほど多くのことを伝えられるわけではなく、意味がないという意見もある。確かにネット広告などが発達し、CM省略の録画技術が発達している現在において、広告効果は大いに疑問がある。
だが、問題はそういうことではない。
憲法改正の国民投票という、民主主義の決定で最も重要な手続で、どれだけ多様な意見を国民に伝えられるか、ということだろう。
発想としては、消耗を避けるための自主規制ではなく、双方が平等に意見広告を流せる公的な保障制度だろう。
憲法改正は、護憲派と改憲派のデスマッチなのだ。
1週間も前からタオルを投げるような規制など無用である。
「拉致問題、NHKに放送命令へ 総務省、明文化の方針」(asahi.com)
総務省は13日、NHKの短波ラジオ国際放送で、拉致問題を重点的に扱うよう、NHKに対する命令書に明記する方針を固めた。総務相は短波ラジオ国際放送への命令権限を持つが、個別具体的な項目の扱いを求めるのは異例だ。ただ、与野党から慎重論が出ている。
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「民主主義に関する一つの概念は、一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会ということである。民主主義という言葉を辞書で引いてみれば、おそらくそのような定義が書かれているはずだ。
そして民主主義のもう一つの概念は、一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならないとするものだ。
そんな民主主義社会の概念があるかと思われるかもしれないが、実のところ、優勢なのはこちらのほうだと理解しておくべきだろう。」
(ノーム・チョムスキー「メディア・コントロール」鈴木 主税訳/集英社新書)
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この数ヶ月、韓国国内の大騒動となったES細胞研究論文の捏造問題。当初、告発に踏み切ったテレビ局は、世論や政府からの総攻撃にさらされたが、真実が明らかになるにつれ、冷静な検証報道が増えてきている。
それでも、依然として後遺症は深い。告発したテレビ番組に寄せられる反響の4割は依然として、捏造した教授を支持する意見だという。
表現の自由について考えるところの多いこの事件。
日本にも2年前に同様に、世論や政府からの激しい攻撃にさらされた人々がいたことを、ウヨクの方々はよもやお忘れではなかろうか?
イラク人質事件は、たまたま「共産党員の息子」がその中に含まれた、その一事をもって「捏造」「自作自演」との攻撃を受け、政治家の口からも同様の発言が聞かれる始末となった。
韓国と日本、いずれも高度なインターネットが発達していることと、近年急速に歪んだナショナリズムや偏狭な愛国心が蔓延るようになったことで共通している。
そして唯一、結末に異なる点がある。韓国の場合は、そうした行き過ぎた思想風潮に修正が図られ、社会の成熟化を促す可能性があることに対し、日本の場合は、むしろこうした風潮が加速する状況を象徴する事件となったことである。
その証拠にネットに溢れる「韓国ざまあみろ」の声、声、声。
彼らのような罵詈雑言も、一応は憲法上の表現の自由の保障範囲内ではある。しかし、「公」やら「行き過ぎた個人主義の修正」やらの言葉が、同じ口から出てくるのであるから滑稽このうえない。
彼らは気付くべきであろう。
隣国を笑い者にしても、自分は幸せにはなれないということを。