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2006年 03月 12日 ( 1 )

 前回まで、人権を制約する原理「公共の福祉」について論じてきたが、今回から数回にわたり、人権を制約した立法を審査する裁判所の役割について論じていきたい。

 司法改革が進み、国民や裁判所に新しい役割が求められている中にあって、憲法訴訟に対する裁判所の果たす役割は、依然として旧態としたものがある。

 従来、この問題を検討するに際して、二つの対立概念があった。司法消極主義と司法積極主義である。前者は、国会・内閣のような政治部門の行った判断(立法)に対して、司法部門は謙譲して取り扱う考え方をいい、後者はその逆の態度をいう。
 この概念は、どちらか一方のみを選択するものではなく、裁判所が憲法問題を判断する際に、どのような場合にどちらの選択をとるべきか、ケースバイケースで判断するための準則として考えられたものである。

 しかし、従来より日本の裁判所は、いわゆる精神的自由権(表現の自由)などにおいて、司法積極主義をとる判断を示すことが一度もなかったため、憲法訴訟で裁判所が消極主義を選択するたびに、リベラル的立場をとる知識人や学界から、政治部門におもねる裁判所の態度を批判する言葉として使われてきた。これは政治的言辞としては正しいといえるが、本来的な用語の使い方としては間違いであるといえよう。
 しかし、この間違った用法の方が広く普及しているのが現状であり(それだけ、裁判所は人権問題に「消極的」であったということになるが)、法律家の中にも誤解されているのが現状である。

 そこで、この司法消極主義・積極主義の考え方に疑義を呈する学者も現われた。1999年に「憲法学のフロンティア」を著した長谷部恭男は、その中で以下のように述べている。

「司法消極主義」ないし「司法積極主義」という概念は、あらゆる実質的価値判断は、その時々のさまざまな利益集団の政治的選好の表れに過ぎず、司法審査のあり方に関わる議論も、その議論にすぎないという見方を誘発する。このような見方は、司法審査の守備範囲に関する議論を袋小路に導くことになる。誤解を避けるためには、「司法消極主義」あるいは「司法積極主義」という言い方自体を回避すべきであろう。


 実際に、日本の裁判所の憲法判断に「深まり」が持たせられていないのは、一つは官僚的な裁判所の判断にあることは間違いはない。しかし、批判する側もいたって分かりやすい政治的言辞としてのこの用語の用い方に責任の一端がある。

 ならば、どのような考えでこの袋小路を脱するべきか。長谷部の「憲法学のフロンティア」を読みながらお話していきたい。
by foresight1974 | 2006-03-12 16:46 | 憲法哲学

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