インタレスト・オブ・ジャスティス〜正義をめぐる旅の記録〜
2020-12-06T12:08:32+09:00
foresight1974
真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。(藤林益三)
Excite Blog
Interest of Justice
http://foresight.exblog.jp/30116974/
2020-12-31T23:55:00+09:00
2020-06-26T19:31:30+09:00
2020-06-26T19:26:22+09:00
foresight1974
ブロガーたちの人生
英米法の世界では、interestは一般に「利益」「利率」と訳されることが多く、justiceは文字通り「正義」を意味するが、日本語の「正義」とは若干ニュアンスが異なり、「公正」(fairness)のニュアンスに近い。
契約書や法律の条文、裁判所の判決文など幅広く登場するが、使われる場面により若干訳例は異なっており、冒頭の訳例のほか、「正義のために」「正義の原則」「公正のために」「法的公正さ」「裁判(上)の利益」というようなばらつきが見られる。
ただ、この単語が使われる目的は共通しており、契約書や法律の条文等を形式的に適用・運用すると公正さや公平さ(衡平さ)に反する場合、「interest of justice」に基づいて適用を否定したり、適用や運用を修正・無効化したりするために用いられる。
また、上級裁判所が下級裁判所の判断の適正を判断する準則として、「interest of justice」を考慮していたか、といった観点を審査するケースにも用いられる。
justiceは、英米法の世界では重要な意義を持ち、契約書や法律の条文、裁判の判決文の正当性を支える上位概念である。
justiceに支えられていない(基礎づけられていない)法は、法たり得ない。
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戦後75年―戦争被害をまともに調べない国の衰退
http://foresight.exblog.jp/30182786/
2020-08-16T23:00:00+09:00
2020-08-16T23:19:29+09:00
2020-08-16T23:15:36+09:00
foresight1974
サイレント政治・社会評論
そうすると、上告人らの前記主張にそう立法をしなかつた国会ないし国会議員の立法不作為につき、これが前示の例外的場合に当たると解すべき余地はないものというべきであるから、結局、右立法不作為は、国家賠償法一条一項の適用上、違法の評価を受けるものではないというべきである。
(最高裁判所第二小法廷昭和62年6月26日判決裁判集(民事)第151号147頁)
8月の戦争関連番組の本数は減少の一途を辿っている。90年代~ゼロ年代に吹き荒れた、バックラッシュ・右傾化の影響で、この国では健全な戦争責任論への思考が停止してしまっている。
そのひずみが噴出したような番組が、昨日NHKで放送された「忘れられた戦後補償」というドキュメントだった。
軍人軍属への補償は60兆円。空襲被害者など民間人へはゼロ。「戦争受忍論」で逃げ続ける政府。民間被害者たちの終わらない戦争。
軍人軍属はいったん恩給を廃止されたが、遺族会が結成され、旧厚生省に影響のある人間たちの暗躍により恩給が復活され、厚生省の巨大な組織利権に育て上げられていく。
一方、民間には「戦争受任論」という二枚舌で、補償を拒否していく。
そして、その「戦争受任論」という助け舟を出したのは、実は、法の番人であるはずの、ほかならぬ最高裁判所であった。
こうした、戦後政治のチェックアンドバランスの不在がどのような事態を招いているか。
今の新型コロナウイルスの蔓延を見ればお分かりだろう。
PCR検査で医療崩壊を言いつのり、はてはうがい薬が特効薬のように喧伝される非科学性。
戦時中の「トンデモ決戦生活」を何一つ笑えない、科学不在、論理的な合理性を無視した失政の数々を糊塗するために、数字は作られ、あるいは隠蔽されていく。
これもだいぶ知られるようになった話であるが、戦後、国は一度も空襲被害の実態調査を実施したことはない。現在、知られている統計は民間の戦争資料センターなどの調査がもとになっている。戦没船員の被害も同様であり、戦後に公益団体などの調査に基づき、昭和46年になって、やっと調べられた有様である。
軍人軍属へは60兆円補償されている、とあるが、台湾や朝鮮など旧植民地の軍人軍属へは一部の一時金以外には実施されていない。これも、最高裁判所が立法不作為の違憲確認を拒否している。(最判平成4年4月28日)
そして、日本の加害責任については、殺害数も含め全く報道されなくなった。
世界史をひもとくまでもなく、真実から目を背けた国家が辿る末路は一つだけである。
国家の滅亡である。
日本人はまことにお気楽なので、311の時ですら正常化バイアスに簡単に惑わされる国民で、この国は未来永劫続いていく、ということを疑っていないらしい。
出生率がここまで下がり、人口が着々と減少し続けているのに、である。
返すあてのない借金が膨らみ続けているのに、である。
そして、勝算のおぼつかない無謀な軍事拡張路線もまた続いているのに、である。
客観的に考えれば、現在の日本社会・国家にゴーイングコンサーンを評価できる要素は、1つもない。
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”インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(5・完)
http://foresight.exblog.jp/30216826/
2020-07-25T23:00:00+09:00
2020-12-06T12:08:32+09:00
2020-09-13T11:31:33+09:00
foresight1974
正義の手続を考える
残念ながら、多くの司法ジャーナリストがノーと答えるだろうと予想する。
長年、国民から絶賛と厚い信頼を集めていた特捜検察の腐敗摘発の歴史は、実は検察首脳の政治的判断による事件選別の歴史といって過言ではない。この後、政財界やマスコミに大量の未公開株をばらまいたリクルート事件では、贈賄側の本犯であった中曽根康弘は再び逮捕を免れている
一方で、バブルの紳士たちが頼った元特捜検事田中森一。オウム真理教捜査の暗部を暴こうとした安田好弘。2000年代に入ると、堀江貴文そして、村上世彰。政権交代の可能性が高まると、民主党政治家が相次いで「政治とカネ」の問題をめぐり狙い撃ちで摘発された。
その一方で、陸山会事件よりはるかに悪質な手口といえる、第一次安倍政権時代に発覚した事務所費の不正流用事件は1人の逮捕者も出ていない。第2次安倍政権ではドリルで証拠隠滅した小渕優子、明白な録音証拠まで残された甘利明までもが起訴を見送られている。経済界でも、堀江や村上よりはるかに違法性が高いとされる、日興コーディアル証券、東芝の不正会計で、やはり1人の逮捕者も出ていない。
実はロッキード事件自体、逮捕者の選別がされていた、とみるのが支配的である。まんまと病院に逃げ込んだ児玉のみならず、防衛庁の対潜哨戒機P3Cをめぐるルートでは、後に総理大臣となる中曽根康弘が捜査の手から逃れている。
ロッキード事件を捜査した検事たちを、文字通り身を挺して守った法務大臣・稲葉修が所属していたのは、中曽根派である。
1990年まで続き、今も東アジアに残っている冷戦型構造の国際情勢の中、対米協調を基調とする自民党政権が崩壊するような汚職摘発は、高度な政治的判断によって見送られてきた、とみる司法関係者は多い。
こうした構造が残されているにもかかわらず導入された現在の司法免責制度は、今後も時の検察首脳の政治的意思によって、事件の共犯者を選別的に保護する、法の下の不平等を助長する制度になりかねない。
そのことを如実に示したのが、司法免責制度第1号逮捕者となった、カルロス・ゴーンの金融商品取引法違反事件であろう。冷静に考えてみれば、億を超える金額の不正流用を、ゴーンが1人でPCを操作して実行するはずがない。大勢の共犯者が当然に予想される事件でありながら、逮捕された共犯者はグレッグ・ケリー1人だけである。
そして、2010年、すっかり色あせた特捜検察の栄光ばかりか、威信を失墜させる事件が起きた。
障害者郵便制度悪用事件をめぐる、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件である。当時の特捜部長までもが逮捕されることになったショッキングな事件の影響は大きく、この後、特捜検察は腐敗した政治権力への捜査能力をほぼ喪失する。
結局、堀田たちの奮闘は報われなかったのだろうか?
その結論を出すのはまだ早いように思われる。
2020年5月15日。新型コロナウイルスの感染が拡大する最中、国会では検察庁法改正案をめぐって与野党が激しく対立していた。この日予想された強行採決は、立憲民主党の国会対策のベテラン議員、安住淳の策が奏功し、すんでのところで阻止される。世論は「♯検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグがtwitter上で500万ツイートを超えるほどに沸騰していたが、またもや法の改悪が強行されようとしていた。2012年に自民党が政権に復帰してから、何度も繰り返されてきた光景である。
午後3時30分。
杖をついたゆっくりとした足取りで、元特捜OBの清水勇男が法務省に現れた。最高検察庁検事も務めた、検察OBの重鎮である。
この日、検察OBらが検察庁法改悪反対の意見書を提出するという情報は、事前にメディア関係者にもたらされていたが、公表された意見書は予想を超えた衝撃をもたらした。
本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著『統治二論』(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
ハッシュタグ名を変えながら連日繰り返されたツイッターデモと、検察庁OBの火を吐くような批判は、惰眠をむさぼる世論をついに揺り動かした。
この週末に行われた朝日新聞の世論調査で、安倍政権の支持率は10%以上急落。翌週、安倍政権は検察庁法改正案の成立を断念する。7年以上続く長期政権で初めての事態である。
その後、支持率は決して回復することはなく、政権維持への気概を喪失した安倍晋三は8月28日、病気を名目に退陣を表明した。いまだ圧倒的な議席数でその地位を守られているにもかかわらず、である。
後の歴史書には、「インターネットの世論で倒された初めての内閣」とでも書かれることだろう。
堀田力は、この転機となった意見書の2人目に名を連ねている。
特捜検察の再生は、決して予断を許さない。
安倍晋三の後に政権の座に就いた菅義偉に近いといわれた、河井克行・河井案里の政治資金法違反事件では、買収された側の地方議員の100人以上が、起訴を見送られることがわかった。(2020年7月12日東京新聞など)
自己に有利な証言を引き出すために一方当事者のみを起訴するのは、特捜検察の昔ながらの古典的手口である。
また、安倍晋三の桜の会をめぐる地元有権者の買収事件においても、秘書の略式起訴のみで終わり、またもや政治家自身が摘発を免れようとしている。(2020年12月5日東京新聞など)
だが、もはやこうしたお茶を濁す手法は限界にきている。
特捜検察には、裁判所と同様の独立性を保障しつつ、世論は時の政権の意向、検察の政治的判断におもねることなく、厳格に法と良心のみに基づいて捜査・起訴を行うことができるよう、法治システムの改革が必要であろう。
インタレスト・オブ・ジャスティスの実現は、いまだに続いている未完のプロジェクトなのである。
「壁を破ってすすめ」ー。
堀田がロッキード事件を回想した私記の書名だが、この言葉は、今の特捜検事たちだけに向けられた言葉ではあるまい。
衰退した法治国家の再生、社会を変えなければならない、全ての人々に向けられた言葉である。
(この連載終了)
(2020.12.6 ベストブログ記事オブザイヤー2020参加にあたり、一連の連載記事を加筆修正しました。)
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”インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(4)
http://foresight.exblog.jp/30216754/
2020-07-11T23:00:00+09:00
2020-12-06T11:55:40+09:00
2020-09-13T10:21:12+09:00
foresight1974
正義の手続を考える
すでに一昨年の12月に田中角栄は死去。真の黒幕といわれた児玉誉士夫にいたっては、死後10年以上経っていた。
「思い出の事件を裁く最高裁」とは当時の司法関係者の自嘲の言葉だが、その通りの大裁判となってしまっていた。
当時存命中だった、贈賄側の檜山廣丸紅元会長と榎本敏夫元首相秘書官だけに下された最高裁判決は、いずれも上告棄却。
檜山の懲役2年6箇月の実刑と、榎本の懲役1年執行猶予3年の有罪判決が確定されたが、この判決文の中で、最高裁は田中角栄の収賄を事実認定する。「首相の犯罪」は最高裁判決として公式認定されたのである。
一方で、最高裁は、その最大の証拠であるコーチャン嘱託尋問調書について、次のようにも述べた。
「検事総長及び東京地方検察庁検事正の各宣明は、K(コーチャン)らの証言を法律上強制する目的の下に、同人らに対し、我が国において、その証言内容等に関し、将来にわたり公訴を提起しない旨を確約したものであって、これによっていわゆる刑事免責が付与されたものとして、Kらの証言が得られ、本件嘱託尋問調書が作成、送付されるに至ったものと解される。」
「『事実の認定は、証拠による』(刑訴法317条)とされているところ、その証拠は、刑訴法の証拠能力に関する諸規定のほか、『刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑事罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする』(同法1条)刑訴法全体の精神に照らし、事実認定の証拠とすることが許容されるものでなければならない。」
「刑事免責の制度は、自己負罪拒否特権に基づく証言拒否権の行使により犯罪事実の立証に必要な供述を獲得することができないという事態に対処するため、共犯等の関係にある者のうちの一部の者に対して刑事免責を付与することによって自己負罪拒否特権を失わせて供述を強制し、その供述を他の者の有罪を立証する証拠としようとする制度であって、本件証人尋問が嘱託されたアメリカ合衆国においては、一定の許容範囲、手続要件の下に採用され、制定法上確立した制度として機能しているものである。」
「我が国の憲法が、その刑事手続等に関する諸規定に照らし、このような制度の導入を否定しているものとまでは解されないが、刑訴法は、この制度に関する規定を置いていない。この制度は、前記のような合目的的な制度として機能する反面、犯罪に関係のある者の利害に直接関係し、刑事手続上重要な事項に影響を及ぼす制度であるところからすれば、これを採用するかどうかは、これを必要とする事情の有無、公正な刑事手続の観点からの当否、国民の法感情からみて公正感に合致するかどうかなどの事情を慎重に考慮して決定されるべきものであり、これを採用するのであれば、その対象範囲、手続要件、効果等を明文をもって規定すべきものと解される。しかし、我が国の刑訴は、この制度に関する規定を置いていないのであるから、結局、この制度を採用していないものというべきであり、刑事免責を付与して得られた供述を事実認定の証拠とすることは、許容されないものというべきである。」
「このことは、本件のように国際司法共助の過程で右制度を利用して獲得された証拠であっても、全く同様であって、これを別異に解すべき理由はない。」
(最高裁平成7年2月22日大法廷判決 刑集49巻2号1頁)19年も後になって、自ら保証していた刑事免責の有効性を反故にしたのである。
世論は首謀者が死亡した後の「長すぎる裁判」への批判が集中していたが、司法関係者に衝撃を与えたのは、嘱託尋問調書の有効性をめぐる判決文であった。
新聞の論調も分かれた。朝日新聞は翌日の社説で「手続きを厳格に守ることは刑事裁判の本領」「あるべき姿に立ち返った」と評価し、嘱託尋問調書なしでの首相の犯罪認定を「納得できる」としたが、読売新聞は「これまでの裁判は何だったのか」「すっきりしない思いが残る」と違和感と当惑を表明した。
弁護団にもショックを与えた。主任弁護人の1人は後年、朝日新聞記者の村山治に「一審、二審で違法収集だと判断されれば違った結論になったはず。(田中元首相らは)無罪という確信は強い」と無念の思いを吐露している。(※1)
何より当惑したのは、嘱託尋問調書の獲得に、文字通り職を賭して悪戦苦闘を重ねた堀田力であろう。逮捕から34年。最高裁判決から15年後、堀田は自身のブログで次のように述べている。
最高裁の判断には、歴史的に見て誤ったものが時々あるが、この判決もその一つだと考えている。証拠能力を認めない理由は、最高裁判所及び検事総長らがコーチャンらに対して行った「不起訴の宣明」(証言した事項については、日本の法令違反として起訴されない旨の宣言)は刑事免責と認められず、これによる証言強制は違法だということである。
たしかに日本にはアメリカと違って刑事免責の制度はないが、コーチャンらはたとえ贈賄について証言しても、日本では起訴しようがないのであって、そのことも考慮して起訴されないと宣明することは、騙すわけでも何でもなく、適法である。そして、それが適法であれば、刑事免責制度の有無にかかわらず、コーチャンらが処罰されるおそれがないのであるから、彼らが主張する黙秘権を否定して証言を強制することに問題はない。
最高裁は、法制度が異なる二国間の国際協力について、法制度の基本原理に反するか否かの基準で手続の効力を判断すべきであるという当然の法理を忘れ、国内手続と同じく個個の法令違反の有無という基準で効力を判断するという過ちを犯している。これでは、捜査の国際協力は、発展しない。
一方、学説は総じて最高裁判決に好意的であった。
当時、刑事訴訟法の第一人者であった田宮裕立教大学法学部教授は、自著の中で「”巨悪”への反感というー当時としては無理もないといえるーある種異常な熱気のもとで進められた手続きと法律判断が、二〇年後の最高裁の冷静な対応により従前からの支配的な考え方の線に戻ったことを意味し、大方の同意のえられる方向が示されたといえよう」と述べている。
しかし、話はここで終わらない。
最高裁判所は、自らいったん反故にした嘱託尋問調書の有効性についての法的な判断枠組みを、徐々に修正し始めるのである。
まず、ロッキード事件丸紅ルート最高裁判決の7年後、角川コカイン密輸事件上告審決定において、アメリカで行われた宣誓供述証拠を証拠採用(最高裁平成12年10月31日決定)。その3年後には、別の事件において韓国の公判調書について証拠採用を有効と判断した(最高裁平成15年11月26日決定)。ついには、司法制度が整っているとは言い難い中国の捜査当局が行った取調調書について、証拠採用を有効としたのである(最高裁平成23年10月20日判決)。
立法府も動いた。2006年1月から事実上の司法取引といえる、独占禁止法のリニエンシー制度(課徴金減免制度)が導入されたことを皮切りに、2018年6月から本格的な刑事免責制度の導入に踏み切ったのだ。
1995年の最高裁大法廷判決からさらに23年。司法の態度は180度転換された。
これで、エンド・オブ・ジャスティス(正義の目的)は実現されたといえるのだろうか?
(つづく)
<参考資料>
朝日新聞・読売新聞社説(いずれも日付は1995年2月23日付)
村山治「42年目の司法取引導入 ロッキード事件と刑事免責」(法と経済のジャーナル)
https://judiciary.asahi.com/jiken/2018061000002.html
堀田力「社会の国際化、民意の変移~流れの中のロッキード事件」(堀田.NET)
http://www.t-hotta.net/teigen/seiji/101020_rockheed.html
多田辰也「刑事免責による証言強制ーロッキード事件」刑事訴訟法判例百選(有斐閣)
田宮裕「刑事訴訟法(新版)」(有斐閣)
※1・・・コーチャン嘱託尋問調書が法律上認められない場合、刑事訴訟法上は違法収集証拠となる。この取扱いについて、最高裁判所は昭和53年の判例において証拠能力を否定すべきという判断を示しているため、判例上、無罪判決を下さなければならなかった。
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“インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(3)
http://foresight.exblog.jp/30127234/
2020-07-04T08:14:00+09:00
2020-12-06T11:51:18+09:00
2020-07-04T08:14:18+09:00
foresight1974
正義の手続を考える
以下は堀田の回想からの抜粋。
「私は、双方の意見書も、双方の証人も意見も、慎重に読み、慎重に考えたつもりです。」
(略)
「しかし、私は、日本の法制度上、証人らに有効な刑事免責を与えられているかどうかについて、私が、ここで確定的に決めるのは適切ではないという結論に達しました。」
ああ、だめだ!身体中の血が、無限に下へ沈んでいく感覚であった。
(略)
「それで、私は、次のように決定します。本件の証人らは、速やかにジャッジ・チャントリィの主催する嘱託尋問の手続において、非公開で証言すること。」
ええっ!私は、聞き間違えたかと思った。
(略)
「ただし」
と、再び口を切った。
「証人らの証言を録取した証言調書は、日本の最高裁判所が、ルールまたはオーダーによって、証人らが証言した事項については起訴されないことを保証し、その文書が日本政府から当裁判所に提出されるまでは、日本側に引き渡さない。また、この嘱託尋問に立会っているいる日本の検事は、証人尋問で知った事実を、何人に対して漏らしてはならない。」
再び、絶句。
(略)
「これが、私が熟慮して出した結論です。」と言い、みんなを見回したが、誰もが、喜んでいいかどうかわからず、戸惑っていた。
(「壁を破って進め」より)
決定は衝撃的であった。日本の最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則規則制定権(日本国憲法77条1項)を有している。しかし当時、このような保証な可能な条項はない。たとえロッキード事件に対応するために制定しても1年かかるといわれた。
当時判明していた田中角栄の収賄は、1973年8月10日。あと1ヶ月と少しで、田中角栄の単純収賄罪の時効(3年)が完成してしまうことになる。
絶望的な状況の中、特捜検察は悲壮な覚悟で権力との決戦に打って出た。
すでに6月22日に丸紅専務・大久保利春、全日空専務・沢雄次ら5名を逮捕。
7月2日、丸紅専務・伊藤宏ら2名を逮捕。
応援検事も続々とやってきた。7月13日、丸紅前会長の檜山広を外為法違反で逮捕に踏み切ったが、取調べには、横浜地検総務部長の安保憲治がついた。取り調べの名手として知られていたが、すでに第一線を退いていた人物である。
特捜検察は一兵余さず精鋭を全力投入した。
が、肝心のコーチャンの供述だけが、時効1ヶ月を切っているのに取れていないのである。
事態の打開を図ろうと、連日検察首脳会議が開かれたが、結論は「ファーガソン裁定に対応することは不可能」であった。
重苦しい空気が立ち込めていたのは、実は検察だけではない。
日本の最高裁判所も同じであった。
海外の要人の証言記録の確保には、両国の裁判所の決定書のほか、大使館(外交ルート)を通じた、何重もの手続きをクリアしなければならない。東京地方裁判所は、5月の高瀬東京地検検事正の不起訴宣明に基づき、アメリカ側に証人申請を出していた。
2ヶ月も経過してから、空気が読めない新しい連邦地裁判事の決定は、まさにちゃぶ台返しであった。
最高裁判所も事態打開のために裁判官会議を開くが、上がるのはファーガソン批判ばっかりであったという。
ところが、この会議を仕切った最高裁長官も、ファーガソン同様、空気の読めない人物であった。
藤林益三。高瀬の不起訴宣明の3日後、最高裁長官に就任したばかりの人物である。
藤林は最高裁判事に任官された当時、乗っていた飛行機が事故を起こし胴体着陸をしたことがあったが、混乱する周囲に「ここで慌てたら日本人の恥」と、悠々と最後に脱出してのけたような人物である。
後日、昭和天皇に拝謁した藤林は、飛行機事故に逸話を話すのだが、拝謁したうれしさからか、昭和天皇が感想をお話しになられたのにかまわず、夢中で面白おかしく話し続けてしまう。天皇への畏敬の念が多くの人にあった時代、本人によれば、後に冷や汗三斗の思いだったらしい。
そんな人物が、批判が飛び交う重苦しい会議の席上、こんなことを言い出した。
「刑事免責の保証について、ファーガソン裁定はORDER(判決、決定)、またはRULE(規則)という言葉を使っているが、これが文字通りなら当最高裁であっても不可能だ。しかし、日米の用語の使い方のニュアンスの問題とも考えられる。」
裁判官会議は熱を含んで盛り上がったー。と最高裁内部のヒューマンドラマの傑作「最高裁物語」を著した山本祐司は書いている。
最高裁はファーガソンの真意をただすため、最高裁事務総局刑事課長・岡田良雄をロサンゼルスに送り出した。そこで「何も法律改正する必要はない。」とファーガソンから決定的な言質を取ったのである。
7月24日、再び開かれた裁判官会議において、「公訴権は検事にあり、検事が起訴しないとアメリカ側にした約束は永続性を有する」という裁判官決議をした。ついに最大の壁が破られたのである。
そして、この決議に署名したのは藤林益三ただ一人であった。
山本は書いている。
「最高裁判事全員(二人欠席)が加わった決議だが、墨痕あざやかな署名があったのは藤林益三ただ一人で、ほかの裁判官は署名もしなかったのである。最高裁大法廷が下す判決でも全判事の記載があるものだが、こんどの事件ではそれがなかった。贈賄の本犯であるアメリカ人を起訴もしない刑事免責が問題化するような場合では、最高裁長官・藤林益三だけが責任をとればよい、というクールな計算が黒い法衣から見えるのである。
これが正式な最高裁の規則改正であるならば、全最高裁判事の署名も必要だったろうが、ファーガソン判事が最強硬とみられた態度をやわらげた機を逃さず、藤林最高裁は「免責保証」を単なる最高裁意見に格下げ、署名も藤林一人ですませるというしたたかさを見せたのである。」
(「最高裁物語」より)
法律上、ここまで来ると明らかにRULEでもORDERでもない。
インタレスト・オブ・ジャスティスをめぐる、日米間の思惑の違いを利用し、最高裁はまんまとアメリカの連邦地裁を出し抜いた。
劇的な場面はこの3日後に訪れた。
当時、毎日新聞社会部に籍を置いていた山本祐司は前日の午後、検察幹部から”耳打ち”を受けた。
しかし、この日まで田中角栄は任意聴取されていない。
特捜部は重要人物を逮捕する際、事前に任意聴取することが伝統になっている。山本たちは締め切りまで迷ったが、結局、毎日新聞は「田中逮捕」の見出しを打てなかった。
歴戦の新聞記者たちは検察幹部に裏をかかれた。
27日早朝、田中角栄、榎本敏夫らの自宅を急襲した特捜検事たちは、任意聴取をすることなくそのまま田中らを逮捕したのである。
海の向こう、ロッキード事件最大の証拠をほぼ孤軍奮闘で確保した堀田は、現地時間の26日午後、日本からの電話で田中角栄の逮捕を知らされた。
電話は現場指揮官の吉永から、珍しいねぎらいの言葉と共に、直接受けたという。
これに先立つ7月6日から、コーチャンは決定的な証言を始めている。
「8月21日の記載には、「檜山にPMと会見するよう依頼した」とありますが、PMというのは誰ですか?」
「日本の総理大臣です。」
など、決定的な事実が明らかにされた。
田中の起訴後、この証言の法的有効性はもちろん激烈な論争点となったが、1978年、東京地方裁判所はこのように判示して、決着点を示した。
「東京地検検事正(高瀬禮二)がコーチャンらに与えた刑事免責は日本の現行法制上では、これを認める規定は見い出し難い。わが国の法廷で免責を与えて証言をさせることは一般に違法の疑いがある。しかし捜査中に東京地検検事正が訴追裁量権を行使して起訴猶予としたことは、①嫌疑が明らかになる時点を待っていてもコーチャンらを起訴できる可能性がない、②コーチャンらの証言獲得は当時の捜査状況や公訴時効から考えても必要であり、同時にアメリカ側の制度から刑事免責は不可欠であった、③刑事免責によって関係者を差別したり、取引を行ったりコーチャンらの権利を不公正に侵害したとは言えない、④検事総長はわが国司法権のにない手である裁判所に不起訴宣明の順守を約束、後継者がこの方針にはんすることは考えられないなどを考えれば違法とはいえない。捜査当時、東京地検検事正がコーチャンらに与えた不起訴確約は不可欠で、刑事免責による不公正はなく、合理的理由があって訴追裁量権行使の範囲に属する。嘱託証人尋問調書は刑事訴訟法321条1項3号の書面(特信性のある供述書)にあたる。」
(「最高裁物語」より)田中角栄に下された判決は、懲役4年。罰金5億円の実刑。日米の司法関係者が条文を超えた「インタレスト・オブ・ジャスティス(正義の利益)」追求の努力は、実を結んだかにみえた。
しかし、事件の19年後、事態は暗転する。
(つづく)
<参考文献>
堀田力「壁を破って進め」(講談社)
山本祐司「特捜検察物語」(講談社)
同「最高裁物語」(日本評論社)
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“インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(2)
http://foresight.exblog.jp/30117670/
2020-06-27T10:44:00+09:00
2020-12-06T11:37:41+09:00
2020-06-27T10:44:06+09:00
foresight1974
正義の手続を考える
アメリカから帰国した法務省参事官堀田力は、法務省刑事局長安原美穂に同行して、総理官邸で総理大臣三木武夫、官房長官井出一太郎と向かい合っていた。
日米間の捜査協力に関する協定の協議のためである。
緊迫したやり取りとなったが、以下は堀田の回想。
「総理は、ご納得いかないと思いますが、大統領が正式にああ言ってきた(※1)以上、われわれとしましては一刻も早く取り決めを結びたく、ご了解を頂戴したいと思います」
安原局長は、紋切口上で言った。
総理の顔はますます苦いものになった。
「どうしてああいう返事になったのかね」とのっけから皮肉な質問である。
「さあ、それは外務省の方からお聞きとりいただきたいのですが」と安原局長も、皮肉な返事をした。少数派閥の三木総理は、外国にも日本の省庁内にも情報源が少ないのである。
「きみらがこちらに寄こせと言ったんだろう」
それは違うといえるのだが、安原局長は黙っているから、もちろん、私も黙っている。
「しかし、きみらが貰って、責任を持って起訴するんだろうね」
これは、つらい質問である。検察庁になんとしても頑張ってもらわねければならないが、資料の中味もわからず、コーチャンらの供述を取れる保証もないのに、起訴などと言われるとまだはるか先の夢のような感じで、約束などできるはずもない。
安原局長は黙っている。不機嫌な人には余計なことを言わないのがよい。
「早く名前が明らかにならないと、モヤモヤはいつまでも晴れない。だから、日本の政治が進まない」
井出官房長官がうなずくのを確かめて、総理は続けた。
「起訴はいつできる?」
答えない。
「逮捕すれば名前は出せるのだろう?」
安原局長が私を見た。そこは詰めていないが、腹を決めてうなずいた。
「資料が来たら、すぐ逮捕くらいできるのじゃないか」
ろくな資料がないとの推測は、局長に話してある。
「そんなすごい資料があるのでしょうか」という局長を、三木総理は、少し考えるふうに見ていたが、少し猫なで声になって、
「しかし、資料の内容は、稲葉君(法務大臣)には報告するのだろうね」
「いや、それはいたしません」
三木総理は、きっとなった。
「検察庁は、私にも報告しません。総理ご承知のとおり、法務省は具体的事件については検察庁を指揮できません」
総理は、もとの苦い顔に戻った。
「きみらが交渉するのは結構だが、政治の責任を負うのはきみらではない。そして、政局は、この問題一つにかかっている。少しでも国民の迄に疑惑が明かされるよう、全力を挙げて交渉しなければならない。事務的に考えられるあらゆる要求をアメリカに出して交渉してほしい」
総理が私の方を見たので、つい私は、「交渉が長引いてもいいのですか」と訊いた。
「いいよ、堀田君」と彼は、最初に名乗っただけの私の名を覚えていて、呼んだ。「交渉はいくら長引いてもよい」
(「壁を破って進め」より)
実際には、この11日後に「ロッキード・エアクラフト社問題に関する法執行についての相互援助のための手続」という日米司法取り決めが調印され、最初の壁が突破された。しかし、これで直ちに資料が送られてきたわけではない。
当時、ロッキード社は連邦地裁に資料公開の差止めを申立て、これが通っていたからだ。連邦地裁が差止めを解除し、ロッキード側の異議を申立て、それを連邦地裁が再び却下するという訴訟手続きに、さらに数週間を要したのである。
時間はどんどん過ぎていった。
日本側も、ただ手をこまねいていたわけではない。
警視庁は、2月24日の家宅捜索で押収した、4000点もの資料の解析を進めている。特捜検察も独自の内偵を進めていたが、参考人として事前に聴取した人数は3000人を超えたという。
捜査本部の首脳陣は両にらみだった。秘匿性の高い汚職事件に、贈収賄の「決定的な物証」など簡単に出てくるはずがない。アメリカ側から提供される捜査資料が期待外れに終わる可能性も考え、手持ちの資料だけでほふく前進を試みていたのである。
対する永田町では権力側の必死の抵抗が続いている。
影で動いていたのは、当時自民党幹事長であった中曽根康弘である。2月6日、アメリカ側の政府関係者に接触した中曽根は、アメリカ側からの捜査資料の提供は「慎重に」するべきだという意向を伝え、自民党内の懇談会でも同様の発言を繰り返した。
その中曽根の背後関係を、特捜検察も必死に追っていた。
ジャーナリストの豊田祐基子は、「「共犯」の同盟史」(岩波書店)の中で、当時防衛庁防衛課長だった伊藤圭一が、P3C対潜哨戒機の選定をめぐる疑惑で、1976年6月に東京地検で事情聴取を受けた逸話を紹介している。
P3C対潜哨戒機だけではない。F4E戦闘攻撃機、E2C早期警戒機、そしてF15迎撃戦闘機。70年代から80年代の初めにかけて、日本政府はアメリカから最新鋭兵器の導入を次々に決定しているが、その渦中には常に中曽根の姿があった。
2年後の1978年、中曽根や元首相岸信介、松野頼三らに対し、アメリカ企業グラマン社から日商岩井を通じて最大30億円のマージンが支払われたことが明らかになった。大規模な対日工作はロッキード社だけではなかったのである。だが、時効の壁に阻まれ捜査は不発に終わった。
中曽根が総理の座についてのはその4年後。当時の米大統領レーガンとの蜜月がアピールされる中、不沈空母発言やシーレーン防衛、防衛費1%枠の事実上の撤廃、沖縄駐留米軍の思いやり予算の大幅増額を通じ、日本の軍事的な対米従属は、抜き差しならないレベルに進行していく。
一度も特捜検察の縄にかかることなく、2019年にこの世を去った中曽根に、2020年、自民党政権は国葬をもって報いた。新型コロナウイルスが蔓延し庶民の暮らしが苦しむ中、1億円もの国費が投じられたという彼の最後の夢は日本国憲法の改正。その夢は現在の安倍・菅政権に受け継がれており、来年(2021年)の通常国会では、憲法改正国民投票法案の審議が行われる予定となっている。
話を1976年に戻そう。
4月11日、押し寄せるマスコミにもみくちゃにされながら、ついにアメリカ側の捜査資料が東京地検に到着した。
厳重なかん口令の中、検事総長の布施健をはじめ、7人の検察・法務首脳が1週間をかけて目を通すが、その資料の人脈図の中に、ついに「Tanaka」の文字を発見したのである。三木の前の総理大臣である、田中角栄のことだと、誰もが直感した。
しかし、資料自体は全体的にいって、権力筋の摘発には程遠い内容であったようだ。堀田は当時目を通した7人の中から「がっかりしたよ。あれだけさわがれて、たったこれだけの資料だなんて」という感想を聞いている。
事件の後、田原総一朗など歴代自民党政権に近いジャーナリストから、「ロッキード事件はアメリカの謀略説」という主張が、時おりなされることがある。
しかし、私(foresight1974)が当時の関係者の証言や、こうして事実に基づいた資料を調べてみると、その可能性は極めて低いと考えている。なぜなら、謀略説の根拠となる捜査資料だけでは、田中角栄の起訴は不可能に近かったからだ。
実は、ロッキード社の対外工作は日本だけではなく、欧州のNATO加盟国や中東諸国など全世界的に行われていたことが後に判明するが、贈賄側の本犯、つまり政治家を起訴に持ち込めたのは、ロッキード社社長コーチャンの供述記録を確保できた日本だけである。
捜査が不発に終わったアメリカ国内では、この反省から1977年にFCPA(海外腐敗行為防止法)が制定される。現在、世界で最も厳しい基準の海外腐敗防止法であり、FBIはアメリカ国内のAWSを介したメールをやり取りだけで、捜査に着手しているといわれている。
しかし、当時は結局、捜査の前進のために、コーチャンらの供述がどうしても必要であった。
4月29日、堀田は再びアメリカに飛ぶ。
ここで立ちはだかる新たな壁、それは日本国憲法だった。
アメリカでは取り調べに弁護士の立ち合いが認められている。当然被疑者は黙秘権を自由に行使し、十分な防御が可能ではあるが、反面、真実の究明は阻害されるリスクもある。
そこで考案されたのが刑事免責という制度である。供述に犯罪に触れる箇所があっても免責される。その代わり黙秘権は許されず、真実を話さなければ司法妨害罪という重罪に問われることになる。
功利主義的ないかにもアメリカらしい制度であるが、日本国憲法はこのような制度を認めていない。interest of justiceの問題が立ちはだかったのだ。
コーチャンの嘱託尋問を実現するには、日本側で、憲法に違反することなく、刑事免責と同様の法的効果を発揮する法的処理を編み出す必要があった。
堀田は帰国後、東京地裁に発出してもらう嘱託書申請書の検討を進めた。
検察内部の当初の意見の大勢は主任検事による起訴猶予。しかし堀田はそれでは不十分だと考えた。
「検事は、(刑事訴訟法)248条で、情状によっては起訴を猶予する権限を認められており、これは、犯情が比較的軽い罪について、起訴しない方が犯人の更生に役立つと思われる時に検事がする処分だと解されています。この条文は旧刑訴(旧刑事訴訟法)の280条を引き継いだものですが、旧刑訴が起訴猶予の条文を設けたのは、大正13年(1924年)からです。それ以前の旧刑訴法時代、さらにその前の治罪法(1880年公布、90年廃止)時代は、起訴猶予に関する条文はなかった。しかし、すでに、明治18年(1885年)ごろから、検事は、証拠がはっきりしていても、犯情によって不起訴の処分をしており、そういう処分の数は、統計によっても、相当な数に上っています。
ということは、少なくとも日本では、条文がなくても、検事は起訴、不起訴を決める固有の権限を持っていると認識されていたということです。理屈を言えば、それは、検事に起訴権限を独占させたことからくる当然の解釈と言えるのじゃないでしょうか。
ただ、その権限を野放しで行使しないように、後になって起訴猶予の条文を置き、犯人の性格とか年齢とか、起訴を猶予するに当って考慮すべき事項を例示したのだと解されます。
今回のコーチャンらに対する不起訴の決定は、起訴猶予の条文に基づくのではなく、その根底にある、検事の起訴・不起訴決定権限に基づいていするのだと考えられないでしょうか。
そうだとすると、検事は、その固有の権限に基づき、今後とも絶対に起訴しないと決定して、自らの手を縛る処分もできるということになります。また、そういう処分でないと、刑事免責の効果は生じないのです。」
(「壁を破って進め」より)※条文は1976年当時。
特捜検察は未知の法律領域へ踏み込んだ。
東京地方検察庁は、5月22日付東京地検検事正高瀬禮二の名前で「コーチャンら三人の供述が将来、日本の法律にふれようとも起訴はしない」という不起訴宣明を出したのである。
乾坤一擲の勝負手であった。
近代法の大原則、罪刑法定主義と深刻なコンフリクト(利益相反)を生じさせる法的処理に、当然、一部の人権派弁護士からは法律違反との批判が上がった。しかし、検察側は強硬に押し通した。
だが、ロサンゼルスの連邦地裁に出頭したコーチャンは猛然と抵抗する。
あらゆる法律を駆使して証言を拒否したばかりか、裁判所の決定には異議で対抗、それに敗れると上級審に抗告。。。サンフランシスコ高裁に憲法訴訟を提起して徹底抗戦を続けた。
時効ギリギリの捜査状況で、さらに2ヶ月が過ぎていく。
結局、あらゆる法的抵抗を潰され、コーチャンは7月に入って供述を始めることになるが、この抵抗は無駄には終わらなかった。
7月2日、これまでロサンゼルス連邦地裁で審理を担当していた所長のスティーブンスが夏季休暇に入るため、ウォーレン・ファーガソンという、空気の読めない裁判官に交代された。
そして、日本にも空気の読めない裁判官が登場する。5月に行われた高瀬の不起訴宣明の3日後、最高裁判所長官に就任した藤林益三である。
(つづく)
<参考文献>
堀田力「壁を破って進め 私記ロッキード事件」(講談社)
山本祐司「最高裁物語」(日本評論社)
奥山俊宏
「検証・ロッキード事件
1)-3 発覚翌日、米国務省日本部長と中曽根幹事長が接触」(法と経済のジャーナル)
https://judiciary.asahi.com/investigation/2010121300020.html
〔注釈〕
※1・・・3月12日のアメリカ大統領ヘンリー・フォードの返信では、資料を渡す条件は、非公開で捜査のために用いるという条件が付いていた。日本の刑事訴訟法47条但書では、不起訴の場合において、公益上公にすることが相当なときは訴訟に関する書類を公開できると定められており、日米間の折衝のネックになっていた。
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“インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(1)
http://foresight.exblog.jp/30117328/
2020-06-27T00:05:00+09:00
2020-12-06T11:24:19+09:00
2020-06-27T00:05:03+09:00
foresight1974
正義の手続を考える
英米法の世界では、interestは一般に「利益」「利率」と訳されることが多く、justiceは文字通り「正義」を意味するが、日本語の「正義」とは若干ニュアンスが異なり、「公正」(fairness)のニュアンスに近い。
interest of justiceという言葉は、契約書や法律の条文、裁判所の判決文など幅広く登場するが、使われる場面により若干訳例は異なっており、冒頭の訳例のほか、「正義のために」「正義の原則」「公正のために」「法的公正さ」「裁判(上)の利益」というようなばらつきが見られる。
ただ、この単語が使われる目的は共通しており、契約書や法律の条文等を形式的に適用・運用すると公正さや公平さ(衡平さ)に反する場合、「interest of justice」に基づいて適用を否定したり、適用や運用を修正・無効化したりするために用いられる。
また、上級裁判所が下級裁判所の判断の適正さを判断する準則として、「interest of justice」を考慮していたか、といった観点を審査するケースにも用いられる。
justiceは、英米法の世界では重要な意義を持ち、契約書や法律の条文、裁判の判決文の正当性を支える上位概念である。
justiceに支えられていない(基礎づけられていない)法は、法たり得ない。
これからご紹介するお話は、ある裁判の証拠をめぐって40年余にわたって繰り広げられた、「interest of justice」を問うドラマである。 1976年2月下旬。アメリカ・ワシントンDC。 法務省刑事局参事官の職にあった堀田力が、その言葉を聞いたのは、アメリカ国務省内の一室で開かれた会議の席上であった。 「われわれは海外で行われた不正行為を処罰できないが、その容疑がきちんと解明されることは、われわれのインタレスト・オブ・ジャスティスだ。」
その月の上旬、ロッキード社長アーチポルド・カール・コーチャンが、アメリカ上院外交委員会で行った証言は衝撃的だった。 「児玉誉士夫は60年代の初めからわれわれに協力してくれていました」 「私たちは、全日空に対して、L1101が出てくるまで、買う機種を決めるのを待ってほしいと働きかけていました。児玉氏には、その協力をしてもらったのです。」ー。 ロッキード事件が発覚した瞬間である。
10年以上にわたりロッキード社が行った、日本の政財界の要人への賄賂工作。工作資金は、21億円を超えていた。
国際興業グループ創業者・小佐野賢治、丸紅専務・伊藤宏など、錚々たる関係者の名前が次々に飛び出し、明らかになった工作資金の最終的な支払先をコーチャンは「政府高官」であると明言した。 しかし、その具体的な名前を追及されても、コーチャンは明らかにすることを頑なに拒んだ。
日本国内の世論は沸騰した。その前日には朝日新聞は早々に一面トップのスクープ記事を打っており、2月6日、国会では日本社会党の“爆弾男”楢崎弥之助が関係者の証人喚問を要求している。
その一方、堀田の回想によれば、当時、「検察庁も法務省も警察庁も妙にシーン」としていたという。「とてもやれそうにない」という判断があったからだ。
しかし検察は決断する。2月18日、史上初めて開かれた検察首脳会議の席上、東京高検検事長神谷尚男の敢然たる発言が場を制した。 「この事件の捜査が大変なことは、誰もがよくわかっている。しかし、もしここで、うまくいかない可能性があるからという理由で検察が立ち上がらなかったら、検察は、今後20年国民から信頼されないだろう。」 時の検事総長は布施健。第一線の指揮を取る特捜副本部長は吉永祐介(※1)。特捜検事たちを見守ったのは古武士の風格のあった特捜部長川島興。そして、後に捨て身の勝負手を放つことになる東京地検検事正高瀬禮二。天の配剤とも思える人材が検察サイドに揃っていたことに加え、法務大臣は硬骨漢で知られた稲葉修であった。
特捜検察が立件のためにどうしても確保したかった証拠。それは、ロッキード社社長コーチャンの尋問記録だった。密室で金銭の授受が行われる賄賂事件には、通常、物的証拠はきわめて少ない。双方のいずれかが裏切ることのないよう、当事者の間で暗号化された領収証などがやり取りされるくらいである。このため、サンズイという隠語で呼ばれる汚職事件の捜査にあたって、捜査当局は、贈賄側を先に取り調べるのが常道の捜査方法だった。収賄側の政治家たちが言い逃れできないような贈賄側の証言を取り、それに基づいて追い詰めるのだ。しかし、ロッキード事件の贈賄側の主犯は海の向こう。国際法の壁が立ちはだかる。そこで、ワシントン駐在歴が長かった堀田に、コーチャンの尋問記録を確保するという大命が下ったのである。
堀田の行く手には大きな壁がいくつも立ちはだかった。 ロッキード事件の究明を政争の具にしかねない日本の国会。日米両首脳の政治の壁。法制度の違いからくる国境の壁。そして時効。 当時の受託収賄罪の時効はわずか3年である。1976年2月に捜査に着手した時点では、田中角栄らが賄賂を受け取った時期は不明で、いつ時効が成立するか分からなかったのである。
捜査は早々に壁に阻まれる。2月16日から日本の国会ではロッキード事件に関する証人喚問が始まったが、そこに児玉の姿はない。4日前、児玉の主治医である東京医大教授喜多村孝一が、脳梗塞との診断書を国会に提出していたからだ。 いわゆる三木おろしも始まった。時の自民党副総裁椎名悦三郎は「三木を田中後継首相にしたのは誤りだった」と発言。国鉄・電電公社値上げ問題など、国政課題が山積しているのに。。。と自民党主流派による三木政権への攻撃は始まったのだ。 今日に至るまで繰り返される、権力べったりの人間たちによる「疑惑ばっかり追及しているヒマがあったら」論法。ここらへんの事情は、今日の野党による桜の会疑惑追及を批判するネトウヨの言い草と、何やら似通っている。
特捜検察も簡単には諦めない。2月24日に東京国税局と合同で児玉の自宅などを家宅捜査に踏み切り、3月13日、児玉を所得税法違反の容疑で在宅のまま起訴に持ち込んだ。しかし、これも時効ギリギリであって、当時の東京国税局長磯邊律男の決断と手腕なしにたどり着けないところであった。綱渡りの連続である。
そんな重圧の中にあって、堀田はあの言葉を聞いたのである。 「インタレスト・オブ・ジャスティス(正義のため)という言葉を、リストウ(司法省民事局国際訟務部長)もバーミンハム(FBI渉外部次長)もヒルズ(SEC委員長)も口にした。「われわれは海外で行われた不正行為を処罰できない(※2)が、その容疑がきちんと解明されることは、われわれのインタレスト・オブ・ジャスティスだ。だから、われわれは協力する」」 「やっぱりアメリカの捜査官の正義は、国際的で広いなア」と感激した、と堀田は回想している。
しかし、ここから交渉は難航した。日米の法制度、両国首脳のスタンスの違いや閣僚などの思惑が絡み、アメリカ側の捜査資料を受け取るのに1ヶ月以上が経過してしまったのである。
(つづく)
<参考文献>堀田力「壁を破って進め」(講談社)
〔注釈〕※1・・・吉永祐介の「祐」は、正式には「吉」は異体字(「士=さむらい」の部分が「土=つち」)、「祐」は旧字体(示へんに右)である。※2・・・アメリカでは、ロッキード事件の反省から、1977年に海外腐敗行為防止法(Foreign Corrupt Practices Act)が制定された。現在、世界で最も厳しい海外腐敗防止法の1つとなっている。]]>
報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(補論)
http://foresight.exblog.jp/25535067/
2016-03-19T18:17:00+09:00
2016-03-19T18:16:58+09:00
2016-03-19T18:16:58+09:00
foresight1974
9条問題
長々と冗長な文章を書き連ねたうえに、なぜ「補論」を認める必要が生じたのか。原因は、筆者の誤りに起因する。
2016年2月25日に放送された「報道ステーション」の内容を紹介する際、「これは、1958年7月10日に開催された憲法調査会において、憲法草案作成時に首相だった幣原喜重郎の証言で、憲法9条の提案者は自分だ、と述べたものである。」と書いたが、放送を記憶のみに頼った軽率さによる完全な事実誤認であり、深く読者諸氏にお詫びを申し上げたい。
2016年2月25日に報道ステーションで報じられた、内閣憲法調査会における、憲法9条の提案者が幣原喜重郎とする論拠となった資料は、次の2点である。
①昭和37年7月21日に開催された、第八回地区別公聴会における、中部日本新聞社元政治部長・小山武夫による証言。
当日、肉声テープの内容が放送されたが、当該公聴会議事録のP.84に記録された小山の陳述内容とぴったり符合しており、本物の音声であることはほぼ間違いないと思われる。
②昭和32年12月に、憲法調査会会長・高柳賢三の海外調査時に、マッカーサーとの間に交わされた書簡。
当時、憲法調査会は在米日本大使館を通じてマッカーサーへ面会の希望を出していたようだ。しかし、途中取り次いだホイットニー(憲法制定当時の民政局長)に、政治的な調査と警戒されてしまい、面会を拒絶されてしまう。
高柳は、政治的な意図ではない旨の弁明の手紙をマッカーサーとホイットニーに出して誤解を説き、マッカーサーから二度の書簡を受け取ることができた。(憲法調査会総会議事録第24回議事録より)
テレビに映し出されたマッカーサーの書簡は、帰国の途上に立ち寄ったハワイで、高柳がマッカーサーから受け取った二度目の書簡である。
書簡は、国会図書館に保管されているようだが、後に憲法調査会が取りまとめた「憲法制定の経過に関する小委員会報告」P.336に書簡の日本語訳があり、報道ステーションで報じられた内容とほぼ一致している。
上記に列挙した資料については、国会図書館で全て閲覧可能なほか、法学部が設置された大学の図書館に蔵書しているところもあり、貸出可能なところもあるようだ。
これらの資料的価値であるが、すでに後編で述べたように、幣原、マッカーサー双方に、たとえも事実に反することになったとしても、憲法9条の制定者を幣原にしておきたい政治的事情があった当時のものであり、音声テープの存在はともかく、新たな歴史資料というわけではない。内容もこれまでの学術研究で知られている範囲に止まっており、既に発見されている資料も何ら矛盾は生じていない。
よって、これらの資料が、学術的な見地から、新たな論争点を提示し、真実の発見に寄与する可能性は乏しい、と思われる。
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報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(後編)
http://foresight.exblog.jp/25534962/
2016-03-19T17:53:00+09:00
2016-03-19T17:52:54+09:00
2016-03-19T17:52:54+09:00
foresight1974
9条問題
(幣原喜重郎 1946年3月6日憲法改正草案発表時の謹話より/出典:古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波現代文庫)
ここからは、古関彰一の学説に基づくものではなく、筆者の私見(推理)をお話しする。
GHQ案を受諾した以降の幣原の発言、あるいは本人から聞いた証言は、憲法9条の発案者は幣原自身との内容で一貫している。
確かに、1946年3月の枢密院における幣原自身の証言をはじめ、その後に読売新聞の記者の聞き取りによって綴られた「外交五十年」、幣原を取材したジャーナリスト(報道ステーションで報じられた中部日本新聞元政治部長・小山武夫の証言など)、羽室メモ、幣原の秘書官だった平野三郎の証言(憲法調査会に提出されたこの証言は、一般に「平野文書」と呼ばれる)にいたるまで、一見して証拠は数多く積み上げられているように見える。
しかし、ここで肝心な点を見落としてはならない。
幣原は、1951年3月に心筋梗塞のためこの世を去っているが、当時、日本はまだ独立を回復していないのである。
草案発表の翌月、1946年4月に、日本史上初の男女平等の普通選挙が行われるが、単独過半数を占める政党は現れなかった。このため政権の枠組み作りが難航し、幣原が進歩党に入党して存続させるという案も浮上したが、第一党となった自由党の反発に遭い挫折。吉田茂が天皇の組閣命令を受けて内閣を組織し、幣原は無任所大臣に回ることになる。
吉田内閣は日本国憲法の制定と施行に大きな役割を果たしたが、翌年の総選挙で比較第一党となったのは日本社会党だった。日本国憲法下で衆議院の指名を受けて組織された初の内閣である。
社会の分裂は大きく、労働争議も頻発していた時代である。一方で共産圏の台頭を恐れたアメリカの議会では、悪名高い下院非米活動委員会が設置され、いわゆる赤狩りが始まった。こうした中で1950年6月に朝鮮戦争が勃発する。
一時は釜山まで資本主義陣営は追い詰められるが、アメリカ海兵隊が仁川に上陸するといったんは戦局が逆転する。が、中国が北朝鮮側に立って本格的に介入するとこう着状態に陥った。
経済は朝鮮特需に沸くが、政府は早期に独立を回復する必要に迫られていた。だが、世論は全面講和論と単独講和論、真っ二つに割れていた。
幣原は当時の首相・吉田茂が率いる民主自由党に所属し、衆議院議長の要職にあった。未だにGHQの検閲も続いている中、そもそも憲法制定時における秘密を自由に語れる立場ではない。むしろ、憲法制定時の秘密を守り通し、独立回復を達成しなければならない立場であった。
一連の証言は、そうした時代に幣原が語り、幣原から聞いた証言のものである。独立後、何らの政治的プレッシャーが存在しない状況で、幣原が真実を語れる場面で得られた証言は存在しないのである。
一方、マッカーサーの側には、全く別の動機が存在していた。
マッカーサーというとGHQ最高責任者というイメージは誰しも持っているだろうが、1948年に大統領選挙に立候補していた事実をどれだけの方がご存知だろうか?
実は、マッカーサーは、立候補のため早々に日本の占領を終わらせるよう、本国政府に何度か打診している。しかし、理解を得られないまま、1948年3月に共和党から立候補したが、結果は予備選での惨敗に終わった。現役軍人の立候補に対する世論の批判は強かったのである。
そうでなくても、前編で述べたように、マッカーサーは本国政府の了解なしにたびたび暴走した。日本国憲法制定も、実際には本国政府の了解を事後的に取り付ける形で、強引にやってのけてしまう。
その後勃発した朝鮮戦争において、マッカーサーは当時のアメリカ大統領・トルーマンと決定的な対立に発展した。中国に対して原爆を使用するよう主張したのである。軍人でありながら、度々のに政治的発言に業を煮やした本国政府は、1951年4月にマッカーサーをついに解任してしまう。幣原が死去した翌月のことである。
帰国したマッカーサーを待ち受けていたのは、ワシントンからの政治的な報復だった。
アメリカは当時、F・ルーズベルトから20年近く、民主党政権が続いていた。共和党員だったマッカーサーは、その功績によって外されていなかったが、いったん実権を失うと政治的な標的とされる。5月3日から3日間、上院外交委員会と軍事委員会の公聴会で証言に立つことになるが、民主党はマッカーサー解任の正当化、共和党はその非を追及する、という政治的対立の構図があった。そして、マッカーサー自身も自己の占領政策を正当化しておきたい事情があった。翌年、再び大統領選挙への立候補を目指していたからである。
5月5日、憲法9条の提案者が幣原である、という証言はこうした政治的状況の中で行われた。
国際法の世界において、日本国憲法の制定が「誰の手によってなされたか」は微妙な問題である。ハーグ陸戦法規第43条では交戦国を占領した場合、占領地の現行法律を尊重するよう要求しており、GHQによる日本国憲法の制定の「押し付け」は、国際法に抵触する可能性があった。日本国憲法の制定は、明治憲法の法改正手続によって進められたのもこうした事情に基づく。マッカーサーとしては、政治的な失点を防ぐため、是が非でも日本国憲法の制定は日本政府の自発的な手によるものと正当化しておきたかったのである。
こうした事情を読み解いてみると、冒頭に記した幣原の謹話は、何やら意味深ではある。
むろん、これらはあくまで推理であって、歴史にIFを持ち込む愚を冒すことを承知で想像するに、もし、幣原が独立回復後も生存したとしても、同様の証言を繰り返した可能性は否定できない。今後、新たな歴史資料が発掘される可能性もわずかながら残されている。
しかし、最低限これだけは確認しておきたいが、報道ステーションの当日の放送内容から、憲法9条の提案者が幣原喜重郎によるものと確定させるのは余りに危険である。
もっというならば、別に憲法9条がマッカーサーの強引な押し付けであったとしても、今の日本に生きる私たちが恥ずかしく思う必要は何一つない。憲法9条に定める崇高な平和主義思想を支持するか、支持しないかは、私たちが自分の頭で考え、自由に決められるはずだからである。
(補論に続く)
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報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(中編)
http://foresight.exblog.jp/25498026/
2016-03-12T21:47:00+09:00
2016-03-12T21:47:00+09:00
2016-03-12T21:47:00+09:00
foresight1974
9条問題
一方、日本政府側の事情はどうだろうか。
すでに松本四原則から毎日新聞の松本案のスクープまで、憲法改正に戦争放棄の項目が盛り込まれていないことはすでに指摘したが、当代一流といわれた法律家たちは、なぜGHQ案を出し抜く形で、画期的な憲法思想を提示することが出来なかったのだろうか。
マッカーサーは、きわめて早い時期から憲法改正の必要性を認識してたと考えられる。すでに、東久邇宮内閣当時の1945年9月13日には、当時無任所大臣だった近衛文麿に、憲法改正の必要性について明かしている。近衛の憲法改正の工作は、GHQの事実上の拒否と近衛の戦犯容疑者としてリストアップされることで潰れてしまう。その後成立した幣原内閣において、商法学者であった松本烝治を委員長として、憲法改正作業が進められていく。
しかし、この組織はほぼ機能しなかった。大変な自信家であった松本は、強力に委員会を主導したうえ、松本案として後に評価される甲乙二案のうち、甲案は松本がほぼ独力で、鎌倉の別荘で書き上げてしまう。一方、当時委員会に在籍していた美濃部達吉、宮沢俊義らの憲法学者は、憲法改正に消極的、はっきり書くとほぼ改正に反対していた。乙案は宮沢が中心になって作成されるが、それは小幅な改正に過ぎない甲案ではGHQを通らないと心配したから、という何とも消極的な理由によるものであった。
松本案は甲乙両案とも1946年1月23日からの閣議にかけられている。もし、幣原が戦争放棄条項を自ら提案したいならば、絶好の機会だったはずである。しかし、当時の閣議は字句の議論に終始したようで、「至尊」と「尊厳」の違いなど、後の結果を知る私たちのような立場から見ると、愕然とするような内容であった。むろん、幣原はこのタイミングでも戦争放棄について一切語った記録はない。
そして、この憲法改正作業について、幣原内閣は公式に、一度も、GHQに意向を確認しなかったのである。
後世の私たちからすると、奇妙なほど占領軍に無神経だったこれらの人々の頭の中について、合理的に説明できる方法はただ一つしかない。
戦争に負けたということがまるで分かっていなかった、ということである。
古関は「日本国憲法の誕生」の中で、「松本を中心とする憲法問題調査委員会のメンバーがポツダム宣言を受諾したことの意味、敗戦の意味、民主化政策の意味を全く理解していなかったことを指摘しなければならない。」と書いている。
幣原内閣は当時、マッカーサーからと大改革指令、すなわち婦人解放、労働組合の助長、教育の民主化、弾圧機構の廃止、経済機構の民主化についての指令を受け、一部を実行に移し始めていた。むろん、そうした事実も盛り込まれることはなかったし、天皇制についても1946年1月1日に、昭和天皇がいわゆる人間宣言をしていたにも関わらず、天皇大権の条項はほぼ改正されていない。
繰り返すが、松本委員会は当時の最高峰と言って差し支えない法律家たちで構成されていた。それをしてこの程度なのである。唯一、補助員だった佐藤功が、「現在の憲法改正事業は大東亜戦争に於ける我国の敗北の結果として、聯合国によつて要求せられてゐるものであると云ふ厳然たる事実を飽くまで忘れてはならぬと思ふ。」と警告を発したが、松本らが耳を貸すことはなかった。
松本案は、2月1日に毎日新聞のスクープなどにより、世に醜態をさらすことになる。が、これをリークしたのはGHQであることはほぼ間違いのないと考えられている。GHQは、2月8日幣原内閣から正式に憲法改正の大綱の提出を受けたが、これを全く評価することはなく、(前編)で述べたように、2月13日、自ら内々に作成していた案を幣原に提示する。
その後の交渉はほぼGHQのペースで進み、内容はGHQのほぼ完勝であった。
すでに戦争放棄条項はGHQから示されているが、その後の5日間、幣原が受入れを積極的に説いて回った形跡はない。18日に白洲次郎が松本案の説明書をGHQに持ち込むも、一蹴されて終わる。19日になってやっと閣議は開かれた。
閣議では、GHQは再三にわたり、昭和天皇を戦争犯罪人として裁くことが、連合国内で問題になっていることを示唆されていることや、日本案とは別に、独自の憲法改正案として発表する用意があるとも告げててきていることが報告されている。GHQ案として発表されたら幣原内閣は面目丸つぶれになる。
天皇が政治的に無力な存在になったことを憲法改正で証を立てる、その代わりに、天皇を戦争犯罪から免責させる。日本国憲法の誕生は、壮大な司法取引だった側面が確実に存在した。
この閣議では結論が出ず、21日に幣原はマッカーサーと直接会談に臨むことになる。しかし、事ここに至っても、戦争放棄条項に幣原は再び消極的な意見を述べたことが、当時幣原内閣の閣僚だった芦田均の筆録から判明している。だが、マッカーサーから大演説をぶたれた幣原は、日本側に交渉の余地がほとんど残されていないことを思い知る。
翌日、22日の閣議で幣原内閣はやっとGHQ案の受け入れを決定した。
こうして淡々と事実を羅列すると、日本側から「戦争放棄」などという革命的な発想が出てくる可能性について、絶望的に否定的にならざるを得ない。
当時の一流の法律家たちが、民主主義や基本的人権についての理解が根本的に欠けていたことは松本案を読めば一目瞭然である。政治家たちは彼らを掣肘しようとすることはなく、日本に起きる革命的な社会変化を積極的に主導することはほとんどなかった。GHQの不躾な要求に陰に陽に抵抗し、その多くが後に日本国憲法を「桎梏」ととらえるようになった。
こうした状況下で、幣原が戦争放棄条項を提案するという説は、ほぼ絵空事に思えるのである。
しかし、戦争放棄条項がGHQ―マッカーサーの提案だとほぼ間違いなく思われるが―からの提案だとすると、なぜ、報道ステーションで報じられたように、マッカーサー、幣原双方とも、まるで示し合わせたかのように「戦争放棄条項の提案は幣原から出た」と証言しているのであろうか。
そこには、マッカーサー、幣原双方に奇妙な利害の一致がみられるのである。
(後編に続く)
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報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(前編)
http://foresight.exblog.jp/25415076/
2016-02-28T00:05:00+09:00
2016-03-19T18:06:35+09:00
2016-02-28T00:05:05+09:00
foresight1974
9条問題
ネット上で、憲法9条の提案者を巡る議論が活況を呈している。
きっかけは、25日に放送された報道ステーションにおいて、岸政権時代の憲法調査会の肉声テープを公開したことだ。
これは、1958年7月10日に開催された憲法調査会において、憲法草案作成時に首相だった幣原喜重郎の証言で、憲法9条の提案者は自分だ、と述べたものである。
【お詫びと訂正】
取り消し部分は、その後再度内容を確認した結果、完全な誤りでした。
正しくは、
①昭和37年7月21日に開催された、第八回地区別公聴会における、中部日本新聞社政治部長・小山武夫による証言
②昭和32年12月に、憲法調査会会長・高柳賢三の海外調査時に、マッカーサーとの間に交わされた書簡に基づく、マッカーサーの証言
でした。お詫びして訂正いたします。
詳細な資料の検証は、補論に記してあります。
憲法調査会の肉声テープを発見したこと自体、憲法制定史にとっては貴重な資料となるものだ。
しかし、この肉声テープを根拠に、「憲法9条は日本人が作った」「憲法9条はアメリカの押し付けではない」といった結論に至るのは、性急過ぎて全く賛成できない。むしろ、こうした単眼的な報道のされ方が、従軍慰安婦問題を巡る報道がそうであったように、後に大きな禍根を残すことになりかねない。
というわけで、本稿では「憲法9条提案者=幣原」説(幣原説)に対するいくつかの違和感を表明しておきたい。
以下の見解は、憲法制定史研究の第一人者として知られる、独協大学教授・古関彰一「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫)に大きく依拠するものである。
実は、幣原説自体は目新しいものではなく、証言当時、朝日新聞をはじめとするメディアも大きく報じており、かねてから有力な学説として知られていたものである。
主な根拠は、幣原自身の証言のほか、GHQの最高責任者であったマッカーサーが1951年に米議会での証言、そして、幣原が枢密院顧問・大平駒槌が語った内容を、大平の娘・羽室ミチ子が聞き取ったものとされる「羽室メモ」の存在がある。
一見、当時のGHQ、そして政府の最高責任者の双方から期せずして同じ証言が飛び出し、これを裏付ける関係者の娘が残したメモもあったことから、先に述べたように幣原説は最も有力な説であった。安定した歴史研究に依拠していることで知られる小学館の日本史マンガにおいても、幣原説に基づく描写がみられる。
しかし、憲法制定史の研究が進展してくるにつれ、この説にいくつかの難点が指摘されるようになっている。
最大の難点は、なぜ幣原は、当時、憲法改正作業を進めていた松本委員会に戦争放棄条項の挿入を指示せず、まるでGHQの制定作業を知っていたかのようにマッカーサーに提案したのか、という点だ。
時系列で整理すると次の通りである。
①1945/12/8 松本四原則が発表。憲法改正の基本方針が示される。
②1945/12~1946/1 GHQ内で憲法改正の準備作業が進められる
③1946/1/24 幣原がマッカーサーを訪問、このとき、幣原がマッカーサーに戦争放棄のアイデアを提案したとされる。
④1946/2/1 毎日新聞をはじめとした一メディアが、松本委員会の憲法改正案をスクープ
⑤1946/2/3 マッカーサー三原則(非公開) 日本の非軍事化の方針を示す
⑥1946/2/8 松本案がGHQ側に提示
⑦1946/2/13 GHQ案がはじめて日本側に提示、当時居合わせた幣原と松本は同案に反対したとされる。
この中で、GHQの改正作業は⑦で日本側に提示されるまで、日本側に極秘で行われている。もし、幣原がマッカーサーに戦争放棄を提案したというのすれば、彼の立場からは筋違いな提案をしたことになるし、そうでないとするならば、GHQの憲法改正の動きを知っていたことにならないと辻褄が合わない、が、これは事実に反する。
また、⑦で指摘しているように、幣原も当初はGHQ案に反対している。幣原説ではこの矛盾も説明できない。
そもそも、彼の当時の立場からすれば、戦争放棄の意向は、松本四原則が発表される①の段階で当然に示されるべきだったはずだが、松本四原則にはそうした記載はないし、松本に指示したという証拠や証言は全く存在しない。
当時、政府側で憲法改正作業に携わっていたのは、松本委員会のメンバーもそうであったように、これに先立つ近衛案を起草した佐々木惣一も、当時の日本において、当代一流の法律家であった。
明治憲法が機能していた時であり、首相の地位は決して高くなかった。同輩中の首席、という言葉の通りである。強力な指導力を発揮できる立場にない幣原が、こうした法律家たちを差し置いて、マッカーサーに単独で、松本四原則にもない憲法改正条項を提案をする、というのはいかにも不自然である。
むしろ、憲法9条はマッカーサーの提案だったとする方が、説明の辻褄が合ってくる。
GHQは⑤の翌日、つまり2/4~12にかけて憲法改正作業を一気にまとめ上げていくが、当初の分担表に戦争放棄の項目はなかった。戦争放棄条項は、後日マッカーサーの直接の指示によって入れられたものである。
前掲の古関「日本国憲法の誕生」によれば、マッカーサーは当時、日本本土の非軍事化と沖縄の軍事要塞化を企図していたとされ、日本周辺を巡る軍事情勢の変化については、これで十分足りると考えていたようだ。
当時、日本周辺において圧倒的な軍事力を保有していたのはアメリカ軍であり、ソ連陸軍は強力ではあったが、渡海して攻撃する能力はほぼ保有していなかった。中国は国民党と共産党の対立が再燃し、朝鮮半島は2つの国家に分断される目前である。
こうした状況にあって、マッカーサーが、黄色人種と見下していた日本人から、軍事的に大きな打撃を受けた国の司令官として、日本の非軍事化の徹底を企図したとしても何ら不思議ではない。
しかも、これはマッカーサーのほぼ独断であった。
このため、アメリカ政府とマッカーサーは、後に深刻な対立を続けていくことになる。
(中編に続く)
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戦後70年目の終戦記念日に寄せて
http://foresight.exblog.jp/24801737/
2015-08-31T23:59:00+09:00
2015-08-19T21:26:10+09:00
2015-08-18T23:42:26+09:00
foresight1974
サイレント政治・社会評論
http://wararchive.yahoo.co.jp/archive/?id=143561
今日は8月15日です。
先の戦争で、そしてその後に起こった戦争で、そして今でも起きている戦争で、
亡くなられた方が安らかに眠られるように、
苦しめられている方々に、少しでも早く、平和な時が訪れますように、
祈らずにはいられません。
私は大学時代、法学を学びましたが、憲法の授業が一番好きでした。
その中で今、とりわけ大事だと思う条文は、実は9条ではありません。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と定めた、第12条の一節です。
私たちは学校で、日本国憲法に定められた国民の義務は3つ(勤労、納税、教育)だと教わっています。
しかし、実は4つあるのではないでしょうか。
尊いという表現では余りにも多過ぎる犠牲が払われた後に、残された平和憲法の精神。
だけど、それを実現するのは他の誰かがやってくれるわけではありません。
私たちの「不断の努力」で実現するほかありません。
これまで70年間、一度も他国と戦争をしなかった。
沢山の方々の、この不断の努力に対して、心からの感謝を気持ちを表すと共に、
不断の努力を市民の一人として、精一杯、引き継いでいきたいと思います。
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「正し過ぎるドイツ」がEUに残した深刻な亀裂
http://foresight.exblog.jp/24704221/
2015-07-19T10:28:00+09:00
2015-07-19T10:28:06+09:00
2015-07-19T10:28:06+09:00
foresight1974
サイレント政治・社会評論
ギリシャの債務問題を巡る交渉で勝ち取ったモノはゼロ。というよりゼロよりヒドイ。
とはいうものの、長い目でみればギリシャに好ましい変化をもたらすだろうから、正しいのはドイツであることは明らか。
それでもドイツは恨まれる。
というより、一連の交渉の事実経過をみていると、ドイツがEU分裂すら恐れていなかったのでは?と思えるほど断固としていた。
しかもそれは徹底されており、ギリシャの国家資産を分離・管理するファンドにドイツ人を送り込もうと画策すらしていた。(結局、分離・管理するファンドはギリシャ人が運営することで決着した。)
あまりにも明け透けなドイツの態度に、イタリア首相・レンツィは「ドイツにもうたくさんだ」というこちらも直截な不満の表明をみせている。ちなみにイタリアはギリシャの財務相だったバルファキスから「とっくに破綻している国」と罵倒されたことがきっかけで、一時はドイツ側に傾きかけていたこともある。
ともかく、チプラスの無責任なポピュリズムからはじまった一連の騒動からは、ヨーロッパ人らしくない品のない言葉の応酬だけを残して、ドイツ案をほぼ100%ギリシャが丸飲みすることで決着したが、EUはこれで増すのは「求心力」ではなく「遠心力」だろうと予想する。
その理由は、各国の政府が、ヨーロッパの統合に好意的な世論というより否定的な世論のプレッシャーを受けて、それに配慮した行動を終始取らざるを得なかった、という事情に由来する。
なぜ、各国の世論が統合に否定的なのだろうか。
むろん、各国の社会・文化的な事情(独立心の強さ等)も背景にあるのだが、もう1つ大きい点は、統合の経済的メリットを感じていない世論が強いからだ。
これも2つの面があって、イタリアやスペインの世論は、自分たちの困窮は「ドイツ流の緊縮策を押し付けられている」という不満、一方のドイツでは、「自分たちの税金が湯水のように無駄使いの多い国(あけすけにいえばギリシャやイタリア等)に使われること」の不満が高いからだ。
これらは本来、「裏返しにみられるべき」問題である。つまり、イタリアやスペインは本来、「自分たちの通貨の信用は、いささか堅苦しくともドイツの財政的規律によることが大きい」ことに感謝すべきだろうし、一方のドイツも「経済的に潤っていられるのは、スペインやギリシャの不況も含めた通貨安のおかげである」ことに後ろめたさを感じるべきなのだろう。
が、感謝や後ろめたさより誤解と不満で政治が動かされている。
この問題の究極的な解決策はEUの財政政策を統合し、公正で効率的、規律のある所得の再分配を実現することで各国国民に統合の経済的メリットを行き渡らせるべきだろうが、当面の現実的可能性はない。
ならば、せめてお互いの世論の不満や誤解を解く外交的努力がなされるべきところを、ギリシャが吹っ飛ばした。
19世紀、普仏戦争で勝利したドイツはビスマルクの外交的な均衡政策を通じて新たな衝突を避けながら国力を強化していったが、アルザス・ロレーヌ地方を奪われたフランスの恨みは消えない。密かに戦争計画を立案しつつ、ビスマルクが引退すると、イギリス・ロシアと同盟を結んでドイツを封じ込めにかかる。一方のドイツは半ば消去法的に結ばれたオーストリアが起こした対セルビア戦争をきっかけに、第一次世界大戦に巻き込まれていく。
むろん、現在においてこうした戦争の再現はほぼゼロである。が、一方で、EU発足の経緯が、冷戦直後、東西統一によって巨大化したドイツの経済的な封じ込めという側面があることがどうにも気になる。
2015年現在、封じ込めは成功しているどころか、域内GDPが50%を超えるドイツの政治力に加盟各国が引きずられている(フィンランドにいたっては域内同盟のような状態だ)というのが実情だ。各国の世論はそれを見透かしているのである。
このままでは、先述した国民投票というモンスターによって、EU統合はズタズタにされていくだろう。
ヨーロッパでの紛争防止と平和的な繁栄の仕組み作りは、1990年にフランソワ・ミッテランとヘルムート・コールが合意した時より、はるかな難局に立っている。
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チプラスの「錯乱」は対岸の火事か?
http://foresight.exblog.jp/24682251/
2015-07-12T17:53:00+09:00
2015-07-13T00:50:19+09:00
2015-07-12T17:53:23+09:00
foresight1974
サイレント政治・社会評論
国民投票の結果に後押しされて、てっきり強気に出ると思われていたギリシャ首相・チプラスは、1週間で結果を反故にするかのような手のひらを返し、反緊縮策の承認の最大の難関と思われていたギリシャ議会での承認に、予想外の圧倒的多数で成功した事で、今までは「無能」のレッテルから「策士」「強か」という評価まで出てくる始末で、世人の心の移ろいやすさにただただ呆れるばかりである。
が、それにしてはチプラスの対応は余りにもちぐはぐではないだろうか。
時系列で事実関係を整理してみると、
6/26 EUからの支援延長案を拒否、翌日未明に国民投票実施を表明。
6/30 ギリシャ政府からEU側の緊縮策の大半を受け入れる旨の書簡が届く。
ところが翌日、チプラスは国民向けのテレビ演説で緊縮策へのNOを呼びかける。
7/5 国民投票の結果、緊縮策受け入れ反対が多数を占める。
7/6 財務相バルファキスの辞任(事実上の更迭)
7/7 EU財務相会議において書面で示されるはずだったギリシャ再建策が示されず。
7/8 チプラス、EU議会演説で再び緊縮策を批判
7/9 ギリシャ政府、改めて財政再建策を提案。EU側の提案を大筋で受け入れ
7/11 ギリシャ議会が圧倒的賛成多数で受け入れ承認。
と並べてみると、どう読み込んでも一貫性のある意図を持った対応がなされていたとはとても言い難い。むしろ「迷走」、もっといえば「錯乱」していると言った方が適切であろう。
これでは、国民投票の結果を反故にしたチプラスは、わざわざ国民の怒りを買うために国民投票をしたようなものである。債務減免(ヘアカット)の約束を取り付けなければ、急速に政権基盤を弱体化させるリスクが生じるが、そこにはバルファキスと二人でさんざん怒らせてきたドイツの首相メルケルと財務相ショイブレが立ちはだかっている。
つくづく、バルファキスの「ゲーム理論」は稚拙・幼稚だった。
まあ、幼稚な外交戦術というと、日本政府もこれまた人後に落ちないものがあるが。。。
そして、本稿執筆現在(日本時間7/12 17:00)、ドイツ政府が期限付きのギリシャのユーロ離脱案という提案までリークされるに及んで、チプラスはますます追い込まれつつある。ギリシャを孤立させることなく、EU支援の下にギリシャに期限付きの独自通貨と為替レートを設定し、ユーロと何らかの形でペッグすることが出来るならばウルトラCの解決策に思えなくもないが、そのための膨大な手続を考えるとこの提案は現実的とは思えない。ただ、ギリシャが考えているほどEUはギリシャに甘くはない。
(※ところで、「EUがギリシャを“見捨てると”ロシアや中国が入ってくる」、というバカげた報道や解説を目にするが、実にバカげている。軍事的理由からアメリカも西欧諸国もそんなことを許すはずがないことは明白だし、第一、こうした見解はギリシャ人自身の「ヨーロッパへの帰属意識」を過小評価している。彼ら自身がロシアや中国と一緒になりたいと望んではいないことは世論調査からも明らかである。
そして何より、経済制裁で外貨準備高を着実に減らしているロシア、上海株式市場の暴落で自国内の経済安定にリスクが顕在化した中国が、貸倒覚悟で残念すぎる放漫財政のギリシャに金を出す余裕があるとはとても思えない。)
とにかく、チプラス政権が今年1月に成立してからというもの、ギリシャは余りに多くの時間を失い過ぎた。現在議論されている財務上の論点はいずれも「今さら」なものばかりで、そもそも議論の余地のないものばかりですらある。
本来ならば、財政再建とバーターで債務減免と長期的な経済成長実現への資金支援という、建設的議論へ使われるべき時間だった。
ポピュリズム、ナショナリズム、そして非生産的な近隣諸国への反発感情の扇動は、不毛な結果しかもたらさないという、歴史的教訓をまたもや世界にもたらした。
ネトウヨは「そりゃ中国や韓国のことでしょ」と言いたいかもしれないが、世間(世界)は、それを日本に見出すときがいずれ来るだろう。
何しろ、来月は戦後70年目の8月なのだから。
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国民投票というモンスターが破壊するEUの社会統合
http://foresight.exblog.jp/24660366/
2015-07-06T01:26:00+09:00
2015-07-06T01:26:04+09:00
2015-07-06T01:26:04+09:00
foresight1974
サイレント政治・社会評論
列強各国の均衡と抑制によって維持されようとした平和はしかし、40年ほどしか続かない。1600年代後半には早くも南米の植民地支配をめぐる衝突が発生し、1700年初頭の北欧諸国での戦争、そしてフランス革命以降のナポレオン戦争によって完全に崩壊する。
時は350年ほど移り、1992年11月にマーストリヒト条約が発効し、EUが誕生する。第2次世界大戦の惨禍と陰惨な東西対立を乗り越え、ヨーロッパを二度と戦場にしないという平和的な理想を掲げて誕生した時の加盟国は12。現在は28か国で構成されている。
ハナシをまとめる当事者は随分と減った。しかし、それでもやはりヨーロッパはまとまらない。
本稿執筆時点で、ギリシャが債権者団―一般にはトロイカ(IMF、ECB、EU)ともいわれる―の財政緊縮案を受け入れるかどうかの国民投票の真っ最中である。
チプラスが6月27日未明、つまり日本時間の土曜日の朝に実施を表明した時、その決断力の欠如と無責任さに開いた口が塞がらなかったが、その後に伝わってきた報道により、どうやら実は債権者側とほぼ合意しかけていた合意案(しかも、その合意の溝はあと6000万ユーロまで縮まっていたという)について、自らの権力維持のために反故にすることを狙ったという内幕を知って、そのジコチューぶりに目まいすら覚えたものである。
まあ、ダメな首相を選ぶことにかけては日本人も人後に落ちないが。
今、EUは極めて危険な状況に立たされている。それは、ギリシアのユーロ離脱という(当事国の国民には失礼ながら)些細な問題ではない。「次のギリシャ探し」で各国の長期金利が上昇する、といった金融面の問題でもない。もっと根源的なものである。つまり、各国政府が国民投票実施のプレッシャーを受け続け、展開によっては、ユーロという通貨がズタズタにされる危険をはらんでいるのだ。
実はギリシャ以外にも、イタリアやスペインなど、ユーロ導入継続について世論がほぼ5分5分に割れている国は数か国存在する。そして、困ったことに、いずれの国も現在の政権与党の基盤は脆弱だ。それら国の議会の議決で国民投票の実施が決められた場合、事態ははるかに深刻さを増す。
そもそも、EUは発足当時からこの「国民投票」というモンスターに悩まされ続けている。1992年に締結されたマーストリヒト条約は、デンマークが国民投票で否決し批准ができず、フランスは僅差で賛成が上回った。通貨ユーロの導入時にもデンマークはやはり国民投票で否決、スウェーデンも2003年に否決された。イギリスにいたっては、一貫してユーロ導入反対が上回り続けている。
EUの理念を根強く支持する人々が多くいる一方で、そうした理念に懐疑的な人々も常に根強く存在した。ここにお互いが相容れない深刻な意見の分裂が存在する。
これを2者択一的に、イエスかノーか(ギリシャの選択肢はノーかイエスか、らしいが。)というゼロサム的な発想で有権者に迫り続けることはいずれ行き詰る。どっちかに決まれば、反対派もいずれ長い物に巻かれるだろう、という希望的観測は物分りが良すぎるいかにも日本人的な発想であって、ヨーロッパの一部の人々(バスク人やスコットランド人)は決して受け入れない発想であろう。
例えば、ギリシャの国民投票で緊縮策受入れが賛成多数を占めたとしても、それは即、ギリシャ政府が緊縮策を受け入れることを意味しない。もし、再度議会選挙が行われる場合、投票制度の違いや投票率から再び反緊縮策の政権が誕生するという迷走は十分にあり得る。
意見が拮抗した場合、単純多数決による意思決定は「ゲーム」としては面白くても、現実を動かすにはさしたる力を持たない、反対に、それが価値観の相容れない者同士でゼロサムの結果を生じる場合、社会を極めて不安定な状態に陥れてしまう。
そういえば、橋下徹ももう少し頭が利口であったなら、住民投票に多少の工夫を加えることで、接戦を制することができたかもしれない、と私は思っている。だが以前にも書いたように、橋下は残念ながら民主主義と自由という物の見方が一知半解の半端者であったので、勝手に自滅した。まだ残りの人生は長いのだから、せいぜいテレビの世界でピーピー騒ぐのがよろしかろうと思う。
が、ギリシャの問題は大阪とは比較にはならない。チプラスというゲバラかぶれの革命家気取りが壊そうとしているのは、ヨーロッパに永続的な平和をもたらそうとした膨大な努力への、痛恨の一撃になりかねない危険性を秘めている。
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