Stateman 小倉昌男の死(前編)

 郵政法案が重大な局面を迎えていた6月30日、一人の素晴らしい経営者の訃報に接した。

 小倉昌男は1924年東京生まれ。父康臣が経営していた大和運輸(現・ヤマト運輸)の経営を引き継ぎ、1976年に「宅急便」を世に送り出し、宅配便市場の雄となった。
 モラリストとしても知られ、勲章を嫌い、官僚の不正と20年以上戦い続けた気骨ある人物である。経営の一線を退いた後は、私財を投じてヤマト福祉財団を設立し、福祉団体の経営改革に一身を捧げた。

 小倉の死が伝わると、「勲章欲しさに官僚の顔色をうかがう経済人と一線を画した」「障害者の自立実現に尽力」という論評がメディア紙面にあふれた。悪いことではない。それは確実に、業界問わず多くの人々の尊敬を集めた小倉の真実の一部だからだ。

 だが、これが気に入らない人物もいた。

 



 新潮社「Foresigt」8月号で、コラムニストのキ文康隆(キは「七」を森状に書いたもの)は、以下のように記した。

 評価の原点はあくまでも、ヤマト運輸を宅急便で蘇生させた経営者としての能力に求めるべきなのだ。彼の反骨も無私の精神も、それなくしては決してあり得なかった。資本主義の限界を誰よりも深く知りつつ、資本主義を軽やかに乗りこなしたプラグマティックな手腕こそ語り継ぐべき第一ではないか。(「経済報道解読ノート47「小倉昌男-墓碑には『稀代の経営者』」より)


 「資本主義を軽やかに乗りこなした」というくだりは、キ文一流の誌的表現だが、より分かりやすく筆者流に言い換えるならば、小倉は不屈の戦略家だった、というべきではないだろうか。

 ヤマト運輸が宅急便を開発し、いかにして新しい事業を切り開いていったかは、前掲のキ文のコラムや、小倉の唯一の著作である「経営学」(日経BP社)に詳しい。それに付け加えてもう一つ強調しておくべきは、小倉が宅急便を開発するまでの試行錯誤と、そこにこぎつけるまでの「守りの経営」である。
 ヤマト運輸が宅急便を開発する過程は、商業貨物事業の行き詰まりがきっかけであるが、そこから直線的に結ばれたものではない。中途ではいろいろな試行錯誤があり、宅急便事業が軌道に乗るまで、三越など大手顧客の理不尽な要求に対して忍耐で応えたこともあった。また、ヤマト運輸が経営危機に瀕した1973年には、新卒採用を停止し臨時雇用者を退職させるなどの合理化にも踏み切った。
 こうした、小倉が経営方針を大きく転換するまでの苦闘の過程は意外なほど評価されていない。90年代以降、日本の大手企業がいくつも市場から退場していくが、その原因の一つがこうした「守りの経営」の弱さだった。市場の変化や事業の行き詰まりをいちはやく察知し、事業の合理化を図りながらも新規事業開発を決してやめない。こうした危機への洞察力と決断力の欠如が、回復不能な打撃を多くの企業に与えた。小倉はこうした危機にも手腕の冴えを見せ、いち早く手を打つことで危機を克服してきた。実は、1973年の合理化時には正社員を一人も退職させなかった。こうしたことで組合の信頼を勝ち取り、全員経営の理想の下に宅急便市場を切り開く原動力を維持しえたのである。

 また、小倉についての特筆すべき点は、彼自身がかなりの学究肌であり、後年まで新しい知識の吸収に貪欲であり続けたことである。
 小倉が宅配便市場を創造するうえで見過ごされがちな点が、ヤマト運輸の経営危機が表面化するかなり前から積極的に勉強会を開き、新進の研究者から知己を得ていたことである。もちろん、宅急便そのものを開発する「ひらめき」は、彼自身がNYを視察したときにマンハッタンでUPSの集配車をみかけたことにあるが、それを下支えするベーシックな市場理論、マーケティング理論をすでに吸収していたこともある。そうでなければ、経営陣のほぼ全員が反対したといわれる宅急便を世に送り出すことは出来なかったはずである。東大生時代のサッカリンの闇商売から小倉の商才は抜きん出ていたが、それを支える勉強量とのシナジーがあってこそ、私たちはこのサービスの便利さを享受しているのである。
 今でも、現場の経営者の中にはこうした学術的成果に全く無知であったり、知っていたとしても非常に距離を置いた、あるいは自己に都合の良い部分だけを取捨選択するような者が多い。というか、そんな経営者ばかりである。小倉は、後年福祉事業に私財をなげうってからも現場から学ぶことを決してやめなかった。スワンベーカリーの成功はその姿勢なくしてはありえないだろう。

 
by foresight1974 | 2005-09-17 13:21 | 企業統治の公共精神

Let's think about day-to-day topics.


by foresight1974