foresightの憲法哲学(10)「靖国神社の何が悪いのか?(5)」

 さて、前回までに靖国神社と政治との関わり合いに関する判例をお話したが、今回は首相の参拝の違憲性を問う訴訟法上の問題点を述べておきたい。



 そもそも国家と宗教との結びつきの違憲性を問う訴訟形式は、行為者が中央政府(国)であるか、地方自治体であるかによって分けられる。

 地方自治体の場合、地方自治法上に訴訟形式が定められており、憲法に違反する違法な支出(例えば、ある地方自治体の長が玉ぐし料を支出した)があった場合、地方自治法242条の2に基づく住民訴訟を提起出来る。そのため、地方自治体に所属する政治家や首長の行為の合憲性を直接的に問うことが可能になる。

 しかし、首相や国の行為の場合は、このような法的制度が整備されていない。そのため、首相の参拝の違憲性を問う側は、「首相の行為によって自己の信教の自由が侵害された」という、一見、一般市民が聞いても強引だとしか思えない論理によって訴訟を提起せざるを得なくなっている。

 この「不幸」は、逆に国側にもある。国側からしても首相の参拝行為をあらかじめ確認する確認訴訟の形式が整備されていないため、首相が参拝するたびに違憲訴訟を提起されるという訴訟リスクを半永久的に背負わされているのである。高橋哲哉が「靖国問題」(ちくま新書)の中で、司法判断として明確に合憲判決がないことを靖国神社に首相が参拝することが違憲であることの根拠として援用しているが、それはいささか飛躍を感じざるを得ない。そもそも、違憲を主張する原告が法的論理として全面敗訴の判決を受けたとしても、訴訟物理論上裁判所が判断できるのは「違憲ではない」というところまでで、そこから踏み出して積極的に合憲判断をする権限を、本来裁判所にはないからである。

 そうした理由から靖国神社に首相が参拝することをめぐる訴訟は、主文で原告が敗訴しながら、傍論の憲法判断により「実質勝訴」だの「実質敗訴」だのという分かりにくい議論が戦わされるのである。

 そこで、こうした問題についてあらかじめ確認できる訴訟形式を整備する、という解決の方向性が考えられるが、これまで現実に議論されたことはほとんどない。

 ならば、この問題をどう扱うべきなのだろうか。次回はそのお話をしたい。
by foresight1974 | 2005-08-07 16:48 | 憲法哲学

Let's think about day-to-day topics.


by foresight1974