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foresightの憲法哲学(9)「靖国神社の何が悪いのか?(4)」

さて、前回までに政教分離規定のあり方をお話してきた。

 だが、日本・アメリカ型の厳格分離規定を最適解としても、政治と宗教の関わり合いを全く排除することは不可能である。たとえば、宗教団体が設置した学校に対する補助金交付やボランティア団体に対する公的支援といった問題もあるからだ。




 そこで、どこまでの関わり合いまでが許されるか。日本の最高裁判所はこの点、「目的・効果」基準を採用している。これは、津地鎮祭訴訟判決(最大判昭52・7・13)において採られた考え方で、「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助・助長・促進または圧迫・干渉等になる行為」は、憲法20条3項に定めた「宗教的活動」にあたるというものである。この基準はアメリカ連邦最高裁が採用しているレーモン・テストに非常に良く似ており、一般的基準として妥当性をもつが、津地鎮祭訴訟判決において「主宰者、式次第など外面的形式にとらわれず、行為の場所、一般人の宗教的評価、行為者の意図・目的及び宗教意識、一般人への影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的になされねばならない」と緩やかに解釈したため、政教分離を骨抜きにしかねないとして厳しい批判を浴びた。
 「目的・効果」基準はその後も各判決において採用されることになるが、次第に緩やかでその曖昧な基準が問題となった。靖国神社に対し愛媛県が玉ぐし料を支出した事件では、一審の松山地裁が同基準を用いて違憲の判断を示した(松山地判平元・3・1)のに対し、二審の高松高裁は合憲の判断を導いた(高松高判平4・5・12)。結局、最高裁も同基準を用いたが、「玉ぐし料の奉納は、社会的儀礼とは言えず、奉納者も宗教的意義を有するとの意識を持たざるを得ないもので、県が特定宗教団体とだけ意識的に特別の関わり合いを持ったことになり」「その結果、一般人に対して靖国神社は特別なものとの印象を与え、特定宗教への関心を呼び起こす効果を及ぼした」として、違憲であると判断したが(最大判平9・4・2)、このとき2名の裁判官が「目的・効果」基準の批判に踏み切り、「目的・効果基準はあいまいにすぎる」と批判し、「完全な分離が不可能・不適当との理由が示されたとき初めて例外が認められると解すべきだ」との少数意見が付けられたのである。
 
 現在も判例変更はなされていないので、すでにみてきたように小泉首相が靖国神社に参拝した事件においても各裁判所はこの基準を採用している。いわゆる合憲判決(違憲ではない判決)は一つとしてないから、現在の判例においては目的・効果基準は厳格な方向性で運用されているといえるだろう。
 
 しかし、問題はそういうことではない。明文上厳格分離を指向しながら、実際の事件に対する適用において曖昧さを多分に含んだ意見審査基準を採用しているという態度である。そうしたことからすれば、前出の少数意見が用いた基準を適用する方が妥当だと考える。
 
 また、少数意見の立場に立つと、「宗教的行事」と「習俗」の区別の解決にも役に立つ。原則的に宗教活動への関わり合いは許されず、例外的に必要不可欠な理由が示されたときのみに許されるという考え方は、当該活動の「宗教性」のレベルの高低に関わらず適用しうる。従来、葬式や初詣といった、解釈上は「習俗」にあたるという考えに対しては、右翼や保守論壇から「説得力に欠ける」という批判がなされてきた。中には、「日曜日の存在も宗教活動だ」などという頭の悪い批判もなされてきたが(現在は、国民に日程を周知させる機能として存在する「日曜日」に宗教性が無いことは明白であろう)、より穏当な表現を用いたとしても、人によって宗教的価値観が異なる社会において、ある行為が習俗にあたるか、宗教的行事に当たるかはかなりの個人差はあるであろう。少数意見の立場は、そうした幅にとらわれることなく、原則-例外の論理で当該行為の宗教的メッセージ性を判断しうることが出来る。

 もう一つ、判例理論の確立において考慮すべきことがある。それは、国家機関が行った当該行為の「宗教的メッセージ性」の問題である。つまり、首相が靖国神社に参拝するという行為が他宗教の信者や靖国神社に批判的な立場をとる人々にどのような「メッセージ性」として受け止められるか、という問題である。前回においても述べたが、政教分離のあり方については多様な形態があるものの、共通して目指しているものはマイノリティ宗教や無宗教の人々に対して排他的になることを防止することである。小泉の場合、靖国神社に参拝したことを批判した人々に対し「頭のおかしい人たち」と罵倒したことがあったが、ろくな信念を語ったことの無いこの人物が、こうした問題に注意をはらった形跡はない。

 政教分離の機能はつまるところ、多様な宗教的価値観を許容する「社会」そのものを保持することにあり、自己満足的な「誇り」やら本当に誓っているかどうか分からぬ「不戦」などを一神社に信託することではない。
 そうした社会を保持するために司法に何が出来るのか。次回は、前回にお話した首相靖国神社参拝を問う訴訟法についてお話したい。
by foresight1974 | 2005-08-07 16:25 | 憲法哲学

真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。(藤林益三)


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