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“インタレスト・オブ・ジャスティス”を巡る、果てのない旅(2)

1976年3月12日午後。

アメリカから帰国した法務省参事官堀田力は、法務省刑事局長安原美穂に同行して、総理官邸で総理大臣三木武夫、官房長官井出一太郎と向かい合っていた。
日米間の捜査協力に関する協定の協議のためである。
緊迫したやり取りとなったが、以下は堀田の回想。

「総理は、ご納得いかないと思いますが、大統領が正式にああ言ってきた(※1)以上、われわれとしましては一刻も早く取り決めを結びたく、ご了解を頂戴したいと思います」
安原局長は、紋切口上で言った。
総理の顔はますます苦いものになった。
「どうしてああいう返事になったのかね」とのっけから皮肉な質問である。
「さあ、それは外務省の方からお聞きとりいただきたいのですが」と安原局長も、皮肉な返事をした。少数派閥の三木総理は、外国にも日本の省庁内にも情報源が少ないのである。
「きみらがこちらに寄こせと言ったんだろう」
それは違うといえるのだが、安原局長は黙っているから、もちろん、私も黙っている。
「しかし、きみらが貰って、責任を持って起訴するんだろうね」
これは、つらい質問である。検察庁になんとしても頑張ってもらわねければならないが、資料の中味もわからず、コーチャンらの供述を取れる保証もないのに、起訴などと言われるとまだはるか先の夢のような感じで、約束などできるはずもない。
安原局長は黙っている。不機嫌な人には余計なことを言わないのがよい。
「早く名前が明らかにならないと、モヤモヤはいつまでも晴れない。だから、日本の政治が進まない」
井出官房長官がうなずくのを確かめて、総理は続けた。
「起訴はいつできる?」
答えない。
「逮捕すれば名前は出せるのだろう?」
安原局長が私を見た。そこは詰めていないが、腹を決めてうなずいた。
「資料が来たら、すぐ逮捕くらいできるのじゃないか」
ろくな資料がないとの推測は、局長に話してある。
「そんなすごい資料があるのでしょうか」という局長を、三木総理は、少し考えるふうに見ていたが、少し猫なで声になって、
「しかし、資料の内容は、稲葉君(法務大臣)には報告するのだろうね」
「いや、それはいたしません」
三木総理は、きっとなった。
「検察庁は、私にも報告しません。総理ご承知のとおり、法務省は具体的事件については検察庁を指揮できません」
総理は、もとの苦い顔に戻った。
「きみらが交渉するのは結構だが、政治の責任を負うのはきみらではない。そして、政局は、この問題一つにかかっている。少しでも国民の迄に疑惑が明かされるよう、全力を挙げて交渉しなければならない。事務的に考えられるあらゆる要求をアメリカに出して交渉してほしい」
総理が私の方を見たので、つい私は、「交渉が長引いてもいいのですか」と訊いた。
「いいよ、堀田君」と彼は、最初に名乗っただけの私の名を覚えていて、呼んだ。「交渉はいくら長引いてもよい」
(「壁を破って進め」より)






実際には、この11日後に「ロッキード・エアクラフト社問題に関する法執行についての相互援助のための手続」という日米司法取り決めが調印され、最初の壁が突破された。
しかし、これで直ちに資料が送られてきたわけではない。
当時、ロッキード社は連邦地裁に資料公開の差止めを申立て、これが通っていたからだ。連邦地裁が差止めを解除し、ロッキード側の異議を申立て、それを連邦地裁が再び却下するという訴訟手続きに、さらに数週間を要したのである。
時間はどんどん過ぎていった。

日本側も、ただ手をこまねいていたわけではない。
警視庁は、2月24日の家宅捜索で押収した、4000点もの資料の解析を進めている。特捜検察も独自の内偵を進めていたが、参考人として事前に聴取した人数は3000人を超えたという。
捜査本部の首脳陣は両にらみだった。秘匿性の高い汚職事件に、贈収賄の「決定的な物証」など簡単に出てくるはずがない。アメリカ側から提供される捜査資料が期待外れに終わる可能性も考え、手持ちの資料だけでほふく前進を試みていたのである。

対する永田町では権力側の必死の抵抗が続いている。
影で動いていたのは、当時自民党幹事長であった中曽根康弘である。2月6日、アメリカ側の政府関係者に接触した中曽根は、アメリカ側からの捜査資料の提供は「慎重に」するべきだという意向を伝え、自民党内の懇談会でも同様の発言を繰り返した。
その中曽根の背後関係を、特捜検察も必死に追っていた。
ジャーナリストの豊田祐基子は、「「共犯」の同盟史」(岩波書店)の中で、当時防衛庁防衛課長だった伊藤圭一が、P3C対潜哨戒機の選定をめぐる疑惑で、1976年6月に東京地検で事情聴取を受けた逸話を紹介している。
P3C対潜哨戒機だけではない。F4E戦闘攻撃機、E2C早期警戒機、そしてF15迎撃戦闘機。70年代から80年代の初めにかけて、日本政府はアメリカから最新鋭兵器の導入を次々に決定しているが、その渦中には常に中曽根の姿があった。
2年後の1978年、中曽根や元首相岸信介、松野頼三らに対し、アメリカ企業グラマン社から日商岩井を通じて最大30億円のマージンが支払われたことが明らかになった。大規模な対日工作はロッキード社だけではなかったのである。だが、時効の壁に阻まれ捜査は不発に終わった。
中曽根が総理の座についてのはその4年後。当時の米大統領レーガンとの蜜月がアピールされる中、不沈空母発言やシーレーン防衛、防衛費1%枠の事実上の撤廃、沖縄駐留米軍の思いやり予算の大幅増額を通じ、日本の軍事的な対米従属は、抜き差しならないレベルに進行していく。
一度も特捜検察の縄にかかることなく、2019年にこの世を去った中曽根に、2020年、自民党政権は国葬をもって報いた。新型コロナウイルスが蔓延し庶民の暮らしが苦しむ中、1億円もの国費が投じられたという彼の最後の夢は日本国憲法の改正。その夢は現在の安倍・菅政権に受け継がれており、来年(2021年)の通常国会では、憲法改正国民投票法案の審議が行われる予定となっている。

話を1976年に戻そう。
4月11日、押し寄せるマスコミにもみくちゃにされながら、ついにアメリカ側の捜査資料が東京地検に到着した。
厳重なかん口令の中、検事総長の布施健をはじめ、7人の検察・法務首脳が1週間をかけて目を通すが、その資料の人脈図の中に、ついに「Tanaka」の文字を発見したのである。三木の前の総理大臣である、田中角栄のことだと、誰もが直感した。
しかし、資料自体は全体的にいって、権力筋の摘発には程遠い内容であったようだ。堀田は当時目を通した7人の中から「がっかりしたよ。あれだけさわがれて、たったこれだけの資料だなんて」という感想を聞いている。

事件の後、田原総一朗など歴代自民党政権に近いジャーナリストから、「ロッキード事件はアメリカの謀略説」という主張が、時おりなされることがある。
しかし、私(foresight1974)が当時の関係者の証言や、こうして事実に基づいた資料を調べてみると、その可能性は極めて低いと考えている。なぜなら、謀略説の根拠となる捜査資料だけでは、田中角栄の起訴は不可能に近かったからだ。
実は、ロッキード社の対外工作は日本だけではなく、欧州のNATO加盟国や中東諸国など全世界的に行われていたことが後に判明するが、贈賄側の本犯、つまり政治家を起訴に持ち込めたのは、ロッキード社社長コーチャンの供述記録を確保できた日本だけである。
捜査が不発に終わったアメリカ国内では、この反省から1977年にFCPA(海外腐敗行為防止法)が制定される。現在、世界で最も厳しい基準の海外腐敗防止法であり、FBIはアメリカ国内のAWSを介したメールをやり取りだけで、捜査に着手しているといわれている。

しかし、当時は結局、捜査の前進のために、コーチャンらの供述がどうしても必要であった。
4月29日、堀田は再びアメリカに飛ぶ。

ここで立ちはだかる新たな壁、それは日本国憲法だった。

アメリカでは取り調べに弁護士の立ち合いが認められている。当然被疑者は黙秘権を自由に行使し、十分な防御が可能ではあるが、反面、真実の究明は阻害されるリスクもある。
そこで考案されたのが刑事免責という制度である。供述に犯罪に触れる箇所があっても免責される。その代わり黙秘権は許されず、真実を話さなければ司法妨害罪という重罪に問われることになる。
功利主義的ないかにもアメリカらしい制度であるが、日本国憲法はこのような制度を認めていない。interest of justiceの問題が立ちはだかったのだ。
コーチャンの嘱託尋問を実現するには、日本側で、憲法に違反することなく、刑事免責と同様の法的効果を発揮する法的処理を編み出す必要があった。

堀田は帰国後、東京地裁に発出してもらう嘱託書申請書の検討を進めた。
検察内部の当初の意見の大勢は主任検事による起訴猶予。しかし堀田はそれでは不十分だと考えた。

「検事は、(刑事訴訟法)248条で、情状によっては起訴を猶予する権限を認められており、これは、犯情が比較的軽い罪について、起訴しない方が犯人の更生に役立つと思われる時に検事がする処分だと解されています。この条文は旧刑訴(旧刑事訴訟法)の280条を引き継いだものですが、旧刑訴が起訴猶予の条文を設けたのは、大正13年(1924年)からです。それ以前の旧刑訴法時代、さらにその前の治罪法(1880年公布、90年廃止)時代は、起訴猶予に関する条文はなかった。しかし、すでに、明治18年(1885年)ごろから、検事は、証拠がはっきりしていても、犯情によって不起訴の処分をしており、そういう処分の数は、統計によっても、相当な数に上っています。
ということは、少なくとも日本では、条文がなくても、検事は起訴、不起訴を決める固有の権限を持っていると認識されていたということです。理屈を言えば、それは、検事に起訴権限を独占させたことからくる当然の解釈と言えるのじゃないでしょうか。
ただ、その権限を野放しで行使しないように、後になって起訴猶予の条文を置き、犯人の性格とか年齢とか、起訴を猶予するに当って考慮すべき事項を例示したのだと解されます。
今回のコーチャンらに対する不起訴の決定は、起訴猶予の条文に基づくのではなく、その根底にある、検事の起訴・不起訴決定権限に基づいていするのだと考えられないでしょうか。
そうだとすると、検事は、その固有の権限に基づき、今後とも絶対に起訴しないと決定して、自らの手を縛る処分もできるということになります。また、そういう処分でないと、刑事免責の効果は生じないのです。」
(「壁を破って進め」より)※条文は1976年当時。

特捜検察は未知の法律領域へ踏み込んだ。
東京地方検察庁は、5月22日付東京地検検事正高瀬禮二の名前で「コーチャンら三人の供述が将来、日本の法律にふれようとも起訴はしない」という不起訴宣明を出したのである。
乾坤一擲の勝負手であった。
近代法の大原則、罪刑法定主義と深刻なコンフリクト(利益相反)を生じさせる法的処理に、当然、一部の人権派弁護士からは法律違反との批判が上がった。しかし、検察側は強硬に押し通した。

だが、ロサンゼルスの連邦地裁に出頭したコーチャンは猛然と抵抗する。
あらゆる法律を駆使して証言を拒否したばかりか、裁判所の決定には異議で対抗、それに敗れると上級審に抗告。。。サンフランシスコ高裁に憲法訴訟を提起して徹底抗戦を続けた。
時効ギリギリの捜査状況で、さらに2ヶ月が過ぎていく。
結局、あらゆる法的抵抗を潰され、コーチャンは7月に入って供述を始めることになるが、この抵抗は無駄には終わらなかった。

7月2日、これまでロサンゼルス連邦地裁で審理を担当していた所長のスティーブンスが夏季休暇に入るため、ウォーレン・ファーガソンという、空気の読めない裁判官に交代された。

そして、日本にも空気の読めない裁判官が登場する。5月に行われた高瀬の不起訴宣明の3日後、最高裁判所長官に就任した藤林益三である。

(つづく)

<参考文献>
堀田力「壁を破って進め 私記ロッキード事件」(講談社)
山本祐司「最高裁物語」(日本評論社)
奥山俊宏
「検証・ロッキード事件
 1)-3 発覚翌日、米国務省日本部長と中曽根幹事長が接触」(法と経済のジャーナル)

〔注釈〕
※1・・・3月12日のアメリカ大統領ヘンリー・フォードの返信では、資料を渡す条件は、非公開で捜査のために用いるという条件が付いていた。日本の刑事訴訟法47条但書では、不起訴の場合において、公益上公にすることが相当なときは訴訟に関する書類を公開できると定められており、日米間の折衝のネックになっていた。




by foresight1974 | 2020-06-27 10:44 | 正義の手続を考える

真理を決定するものは、真理それ自体であり、それは歴史を通して、すなわち人類の長い経験を通して証明せられる。(藤林益三)


by foresight1974