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 長谷部「憲法学のフロンティア」を読んで私が思い浮かべたのは、1982年に最高裁長官となった寺田治郎と、その後を継いだ大物長官・矢口洪一のことだった。長谷部が示唆した「技巧的」司法積極主義を推し進めた長官たちである。

 その当時、最高裁は誕生から30年以上が経過し、社会の成熟化と保守化の中で判例が集積し、憲法判断をする機会が大幅に減少していた。全農林警職法事件以来、リベラル派の判事はガス抜き程度の数に抑えられ、最高裁内部の評議で活発な議論が戦わされることも少なくなっていた。

 「六法全書を持って戦争に行った」と評される合理主義者・寺田の時代、大法廷に回附した事件が7件にものぼった。各小法廷の訴訟指揮に通常、長官が介入することはできない。大法廷を開くには小法廷で大法廷に回附する決定が必要になる。しかし、現実には長官の意向が様々な形で示唆され、重大な事件が大法廷に回附されることがあるといわれている。

 この7件の大法廷裁判で行われた「技巧的」司法積極主義とは何か、それは長谷部が指摘した「読み替えによる現状の固定化」である。限定解釈による合憲判決である。

 

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by foresight1974 | 2006-03-19 22:50 | 憲法哲学
 前回のブログにおいて、憲法問題に対する裁判所の態度について司法消極主義・積極主義という対立概念があり、その効用の限界を示した。

 どちらの立場を採るのであれ、裁判所が憲法問題について、その政治的選好に基づいて判断しているわけではないという応答を示す必要がある。

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by foresight1974 | 2006-03-19 16:12 | 憲法哲学
 前回まで、人権を制約する原理「公共の福祉」について論じてきたが、今回から数回にわたり、人権を制約した立法を審査する裁判所の役割について論じていきたい。

 司法改革が進み、国民や裁判所に新しい役割が求められている中にあって、憲法訴訟に対する裁判所の果たす役割は、依然として旧態としたものがある。

 従来、この問題を検討するに際して、二つの対立概念があった。司法消極主義と司法積極主義である。前者は、国会・内閣のような政治部門の行った判断(立法)に対して、司法部門は謙譲して取り扱う考え方をいい、後者はその逆の態度をいう。
 この概念は、どちらか一方のみを選択するものではなく、裁判所が憲法問題を判断する際に、どのような場合にどちらの選択をとるべきか、ケースバイケースで判断するための準則として考えられたものである。

 しかし、従来より日本の裁判所は、いわゆる精神的自由権(表現の自由)などにおいて、司法積極主義をとる判断を示すことが一度もなかったため、憲法訴訟で裁判所が消極主義を選択するたびに、リベラル的立場をとる知識人や学界から、政治部門におもねる裁判所の態度を批判する言葉として使われてきた。これは政治的言辞としては正しいといえるが、本来的な用語の使い方としては間違いであるといえよう。
 しかし、この間違った用法の方が広く普及しているのが現状であり(それだけ、裁判所は人権問題に「消極的」であったということになるが)、法律家の中にも誤解されているのが現状である。

 そこで、この司法消極主義・積極主義の考え方に疑義を呈する学者も現われた。1999年に「憲法学のフロンティア」を著した長谷部恭男は、その中で以下のように述べている。

「司法消極主義」ないし「司法積極主義」という概念は、あらゆる実質的価値判断は、その時々のさまざまな利益集団の政治的選好の表れに過ぎず、司法審査のあり方に関わる議論も、その議論にすぎないという見方を誘発する。このような見方は、司法審査の守備範囲に関する議論を袋小路に導くことになる。誤解を避けるためには、「司法消極主義」あるいは「司法積極主義」という言い方自体を回避すべきであろう。


 実際に、日本の裁判所の憲法判断に「深まり」が持たせられていないのは、一つは官僚的な裁判所の判断にあることは間違いはない。しかし、批判する側もいたって分かりやすい政治的言辞としてのこの用語の用い方に責任の一端がある。

 ならば、どのような考えでこの袋小路を脱するべきか。長谷部の「憲法学のフロンティア」を読みながらお話していきたい。
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by foresight1974 | 2006-03-12 16:46 | 憲法哲学
Sing Like Talking...

大学時代の友人の薦めで買ったCD。
10年以上経つのに、まだ飽きずに聞いている。

※セブンアンドアイのショッピングサイトより

http://r1.jp.rmi.yahoo.co.jp/rmi/http://www.7andy.jp/cd/detail?accd=C0780894/rmivars%3ftarget=_top

「La La La」は3曲目に収録されている。

最初は単純に良い曲だなー、ていう印象だけで、佐藤竹善が「曲が完成したときちょうど湾岸戦争がはじまって、聞きながら涙が出た」というエピソードを耳にしても、頭では分かったけど、実感としては落ちるところがなかった。

数年前、久々にその友人とこのグループのライブを聞きに行ったとき、アンコールでこの曲をやった。思わず涙が出そうになった。
そのとき、イラクやスーダン、ジンバブエで多くの罪なき人々が殺されていた。

「たぶん僕らは人事のように。。。」から続く、あの想いをやっと30過ぎてから、佐藤竹善と「共有」出来た気がしている。

自分の「意志」で未来を切り拓くという想いに共感していただける人に、是非お薦めしたい。
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by foresight1974 | 2006-03-07 00:19 | 書評・鑑賞
 今月から新コーナーとして、法律関係の雑誌、論文、書籍などの紹介も少しずつやっていきたい。

 今回は、いつも購読している中央経済社「ビジネス法務」2006年4月号を取り上げたい。

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by foresight1974 | 2006-03-06 23:22 | ビジネス法務
 今週も、自分とほぼ政治的立場を同じくする方に苦言を申し上げたい。
 そんなことをチマチマやっていると、バカウヨクどもに日本国憲法を「スティール」されかねないほど、現在の日本のリベラル陣営は貧弱なのであるが、内輪の議論に妥協して馴れ合うのは最も自分の嫌うところなのである。

 今回取り上げるのは、在日朝鮮人の社会問題を取り上げ続けていらっしゃる半月城さんのサイト「半月城通信」に掲載されたアサヒビールと靖国神社の関係についてである。

 同サイトによれば、アサヒビールの最高顧問・中條高徳が「国事行為たる戦争の犠牲者を祀る靖国神社に詣でる事をしない政治家に、国政に参加する資格はない」と新しい歴史教科書をつくる会のHPに書いていることである。(リンクはこちら

 半月城氏は、これをアサヒビールの公的見解であるかのように捉え、アサヒビールに再三の抗議を行うとともに、中條の解任を要求している。

 アサヒビールはこれに対し、中條の個人的行動であることを説明し、今後、個人的行動に関しアサヒビール最高顧問の肩書を用いないよう「厳重に申し渡した」としている。

 果して、これらの諸点について法的問題はあるのだろうか?私の見解は半月城氏と異なる点がいくつかある。

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by foresight1974 | 2006-03-05 21:18 | サイレント政治・社会評論

Let's think about day-to-day topics.


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