理想とルールと選択と(3)

第一に、「憲法と平和」とくれば、憲法に反する自衛力の保持を断固糾弾し、その一日も早い完全廃棄と理想の平和国家建設を目指すべきだという剛毅にして高邁なるお考えの方もおられようが、そういう方には本書は全く向いていない。
(長谷部恭男「憲法と平和を問いなおす」ちくま新書)




((2)のつづき)
 さて、草の根の反戦ヒューマニズムと社会党、共産党のプラグマティズムが結びついた護憲運動は、1970年代から抗いがたい現実に押し流されていく。
 膨大な中間層の出現による生活の保守化である。高度経済成長に伴う、史上初めての豊かな社会が、日本の安全保障政策に対する問題意識を完全に麻痺させていくのである。

 草の根の市民達の護憲運動のことについて語るとき、無力な人々の報われない努力に頭が下がる思いだ。
 戦後まもなくの貧しい時代、憲法9条の「素晴らしさ」を語る時間を持つことができたのはほんのひとときだった。60年安保時代の高揚期を経て、70年代以降に経済の豊かさが社会を覆うと、今度はその豊かさが、憲法9条の大切さを忘却していったのである。
 
 この時代の世論調査で特徴的なのは、憲法9条を評価する意見が圧倒的である一方、積極的・消極的さまざまではあるが、自衛隊に対する支持も圧倒的なのである。
 自衛隊+日米同盟という政策の組み合わせが、「自然なこと」として受け入れられたのは、おそらくはこの頃であろう。

 その後、冷戦の崩壊と社会主義の凋落により、反戦ヒューマニズムの退潮が決定的になったとき、憲法学では新たな世代が登場してきた。
 いわゆる「55年世代」である。

 この世代は、左右問わず既存の学説や概念を一度徹底して吟味する機会に恵まれたため、様々な新しい思潮が生まれてきた。

 その代表的な論客である長谷部恭男の主張は、従来の反戦ヒューマニズムに内在する弱点―外在的な弱点とは「現実に裏切られる」ことだが―を見事に突いている。

 たとえパルチザン戦や組織的不服従運動が実効的な解決につながらず、あるいは際限なき地獄を現出し、あるいは相手方による血みどろの圧政につながるにしても、なおそれが道徳的に正しい選択があるがゆえにそうすべきだという立場が考えられる。
(中略)
 キリストが右の頬を打たれたら左の頬を向けよと説いたのは、そうすれば相手は攻撃をやめるだろうという理由からではない。相手が攻撃をやめるか否かにかかわらず、そうすることが正しい人(少なくとも正しいキリスト教徒)の道だからという理由からである。
 善き生に関する観念は多様であり、相互に比較不能であるということが、立憲主義の基本的前提である・・・。こうした立憲主義の立場と、ある特定の「善き生」の観念を貫くために、結果にかかわりなく絶対平和主義をとるべきだという立場とは容易には整合しない。


 ある意味、TSUNAMI氏が満足するような「9条を支える思想」も、「生存権エゴイズム」以外に思想が見当たらないというのも、当然といえる。
 なぜなら、右の頬を打たれたら左の頬を向ける行為は、もはや「個人の人徳」の次元でしか説明できるものではない。憲法9条は、そもそも普通の市民にはどだい無理な要求をしていることになるからだ。

 それでは、長谷部は憲法9条をどのように考えているのか。
 長谷部は「各国が自衛のために何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢」=穏和な平和主義を主張するのである。
 (ことわっておくが、長谷部はだからといって、憲法9条で自衛隊が合憲になるとか、憲法改正に賛成であるなどとは一言も言っていない。)
 この説に従えば、憲法9条の絶対的平和主義を支える思想というものは、立憲主義と矛盾することになり否定される。憲法9条は、合理的自己拘束、つまり個々の国家にとって合理的な安全保障政策が結果として危険な軍拡競争や不毛な戦争を起こす危険を回避するために、あらかじめ国家の政策の幅に容易に動かしえないような制限を課す、という目的のために制約された「枠」として説明される。
 私は、この説明を憲法9条の「一面」を説明するものとして支持するものである。

 もちろん、この程度のことはTSUNAMI氏も予想されている。(1)で紹介した記事の中で、「予想される最も安易な応答は、鏡さんが前提とされている9条解釈、すなわち、憲法は非武装抵抗思想の系譜を引く絶対平和主義に基づくものだという解釈を拒否することによって、鏡さんの問題提起を回避することだろう。」と書かれ、「そのような「気の抜けたビール」のような9条解釈に立つ限り、鏡さんの問題提起を回避することはできても、現在の改憲策動に対しては何の歯止めにもならないだろう。」と厳しい批判を浴びせている。
 だが、この安易な回答は9条問題を考えるうえで、非常に重要である。
 そのことを指摘するため、まずは、TSUNAMI氏ががっかりするくらい、そのとおりの回答を差し上げたつもりである。
 
 それでは、9条を支える思想的根拠がなければ、TSUNAMI氏が言うとおり、「9条改憲の策動を阻止できない」のだろうか?
 私はそれは間違っていると思う。
 私に言わせれば、9条改悪阻止への戦略はいたってシンプルである。
 憲法9条改正について、国民の考えはざっくりと以下の組み合わせで分類できる。


第1問 憲法9条を改正するべきか?

  1.YES→(1)
  2.NO→(2)

第2問 憲法9条をなぜ改正するべきか?

  1.現実に合わせるべきだから→A
  2.普通の国になるべきだから→B
  3.押し付け憲法から脱却するべきだから→C


 私の戦略とは、まず(2)をしっかり増やし、(1)を選択しながらも第2問でAやBの選択する考えの人々を切り崩すことである。
 方法は簡単だ。改正案に「この案は、(1)-Cという偏狭なナショナリズムに基づいている」という批判を繰り広げることだ。
 第1問でYESと答える人々の人間関係は複雑だ。第2問でA、Bと答える人々には、「Cと一緒にされたくない」という強烈なコンプレックスがある。(そのことを明らかにしたのが、小熊英二の「<癒し>のナショナリズム」である。)
 一般に多いと思われる、(1)-A、(1)-Bという主張を支える思考はプラグマティズムである。ならば、(1)-A、(1)-Bの組み合わせの考えを持つ人々に、上記のような憲法9条の「効用」を理解させることはさして難しいことではない。現在の憲法学の研究水準ならば、憲法9条の現実感覚と健全さ、普遍性を説明し、同意を得ることは十分可能である。
 世間が、今度の改憲案は(1)-Cのような偏狭な理念に基づいており、単なる復古思想と世間に認知されたら、「改憲」が成功する可能性はほぼゼロである。これで当面は9条改悪を阻止できる。

 もちろん、それで自衛隊がなくなるわけではないし、日米同盟を破棄することにはならない。改悪陣営は、リアルな政治的欲望の限り、現行9条の骨抜きと、9条そのものの改悪の二兎をなおも追い続けることになるだろう。つまり、護憲派は、何も得るものがないのである。
 それでは、とTSUNAMI氏ならば聞くだろう。結果において、いわゆる解釈改憲最悪論とさして違わない結果しか生まない「9条改悪阻止」に何の意味があるのだろうか?このような結末が、9条を真の意味で擁護したことになるのだろうか?

 そこで、この反論に答えるため、愛敬浩二の「改憲問題」の最終章をご紹介したい。
 主人公・狩田教授のゼミ生たちは、当初は典型的で不毛な改憲議論を戦わせていたが、9回の講義を終えて、見事な成長ぶりを見せるようになる。

 ゼミ生たちは、「押し付け憲法論」や「解釈改憲最悪論」のように、改憲案の具体的中身を問わずに改憲の是非を議論する不毛な「空中戦」をやめて、現代日本の政治・社会・経済の状況、あるいは日本を取り巻く国際環境などとの関係で、どのような内容の改憲案であれば、日本社会にどのような変化が生じるのか、その変化は本当に望ましいものか否か、といった問題を具体的に議論するようになった。


 このことは、ネット政治討論歴10年の私の経験に照らし、9条改悪阻止の戦略を考えるうえで、非常に重要なことだと考えている。
 なぜなら、いきなり憲法9条の「思想」と大上段に振りかざしたところで、その「俺流思想」に納得する人がぞろぞろ出てくるという状況は非常に考えにくいからだ。また、残念なことに、現在の日本社会では「憲法論=神学論争的不毛な水掛け論」というイメージが蔓延しており、憲法9条の「思想」を簡単に啓蒙できる状況ではない。

 ここで、長谷部憲法学が重視する「比較不能な価値観の共存」という視点を生かすことが重要になる。
 一応おさらいしておくと、記号論理学上の比較不能というのは、AとBとは、いずれかが他方より優れているとはいえず、かつ、両方が同価値であるともいえないとき、比較不能の関係にある。
 例えば、前掲の設問において、いずれの立場であっても、本質的には価値観に優劣はない、と私は考えているのだ。

 冷戦が終わり、サヨクの言葉は現実に対する効力を失ってしまった。しかし、その後、ウヨクのロマンティシズムも、アメリカの単独行動主義に歯止めをかけられないルサンチマンと、歯止めのかからない社会の流動化の中で、力を失っていくことになるだろう。
 残るのはもはやウヨクの言葉を間借りしたポピュリズムだけだ。改憲とは、そうしたブームの中の一つの現象であろう。

 護憲派は売国奴ではない。だが、保守は保守なりに、真剣に国を思っている。そのことを、双方が最低限の約束事として受け入れるべき時期に来ているのではないだろうか?
 そのうえで、私は上記の引用ような「対話」が、国民の間でなされ、立憲主義の下での「公正さ」が形成されるようになることが、憲法9条の理想や思想を探し当てることよりはるかに大切なことだと、私は考えているのである。
 もちろん、憲法9条を巡る議論は、「改憲問題」に登場するようなサロン的談義ではない。しかし、憲法9条を巡る議論を通じて、国民に立憲主義や平和主義、それを構想する思考力を構築する教育効果は大きいと考えている。
 そういう大局的な見地を、長谷部憲法学の視座はもたらしてくれるのではないか?と考えているのだ。

 よって、結論として、私は鏡氏の主張に正面から回答することは、毛ほども考えていない。
 ということで。。。((4)へつづく)
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by foresight1974 | 2007-01-15 20:39 | 9条問題

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