理想とルールと選択と(2)

小熊:・・・「戦後民主主義」と呼ばれるようなものがなぜあれほど楽天的なヒューマニズムを語ったのか、転向したといわれる人たちがなぜあのようなものを書いたのか、自分が納得できるまで追いかけてみたかった。
 最初は、戦争の影の巨大さを、(「民主と愛国」で)あそこまで主題にして据える予定はなかったんです。いろいろ調べているうちに、これが最大の背景になっていることがだんだんわかってきた。戦争中の醜悪な体験は、みんな語りたがらない話だったので、表面的には目立たないけれど、どの戦後思想を読んでも断片のように出てくる。それがだんだんと集まって一つの像をなしてきて、これを最初に置かないと話が成立しないと分かったわけです。
(小熊英二「対話の回路・戦後思想の巨大なタペストリー」新曜社)




((1)のつづき)
 では、鏡氏の問い「9条を守ろう」と主張する場合の、日本人の思想的な根拠は何なのか?」という問いに答えたい。

 単刀直入にいうと、「たくさんある」としか答えようがない。
 というのは、そもそも9条とは、鏡氏が想定されているような非武装抵抗思想の系譜を引く絶対平和主義だけに限らない。憲法制定過程から、様々な思惑に翻弄されてきたのである。

 9条制定の経過については、憲法制定史の第一人者・古関彰一の著書「新憲法の誕生」(中公文庫)に詳しく載っているので、同書に基づいて事実を確認していこう。
 憲法9条については、後にマッカーサーが議会証言の中で、当時の首相・幣原喜重郎のアイデアだったと語ったため、幣原説が長らく有力であった。しかし、現在有力なのは、マッカーサー自身が主導した説である。いずれにせよ、再軍備の余地を残さないという点でGHQと日本政府は一致していた。特に、オーストラリア政府が強硬であり、アメリカなどに日本の再軍備の危険を再三にわたって警告したばかりではなく、講和条約締結時には、さらに徹底した日本の軍備廃棄をするよう画策した。いずれにせよ、再軍備を検討する余地はなかったのである。

 また、帝国議会における論戦も活発とはいえなかった。
 9条を巡る議論においては、当時首相の吉田茂の答弁と芦田修正が大きなポイントになっているが、当時の帝国議会で再軍備に関する共通認識は存在していない。
 まず、「従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然りであります」と答弁した吉田答弁の評価であるが、共産党の野坂参三の追及に色をなした吉田の勇み足であり、政府の想定問答の範囲を超えていた。しかし、首相答弁としての事実は重い。また、政府の想定問答自身、再軍備も交戦権もはっきりと否定しており、少なくとも「自衛隊」の設置などということは想定していないのである。
 次に、芦田修正についてであるが、確かに、「法の論理」のうえでは、「前項の目的を達するため」という表現を用いて再軍備への布石を打つことは可能である。実際、GHQの担当者や日本側の官僚、そして芦田や国務大臣・金森徳次郎らの「内心」には、この修正で再軍備の道が開けるという可能性の認識はあったようである。しかし、後年多くの憲法学者が批判してきたように、それはあくまで「秘めたる意図」であって、憲法制定の帝国議会の中で顕在化した議論ではない。芦田が後年主張したような、自衛戦力を合憲とする認識は政府にも議会にもなかった。陸軍省にいたっては、警察機構を超える武力を持つ組織は違憲であるとの見解すら示している。

 結局、政治家や官僚、GHQなどに憲法9条に関する様々な思惑があったにせよ、憲法9条は絶対平和主義的に解釈するということで合意されているのである。

 だが、やがてそれは講和条約締結を至上命題としていた、保守のプラグマティズムに過ぎないことが明らかになる。吉田は答弁の10ヵ月後にGHQに再軍備の打診をし、芦田は制定直後から放棄したのは侵略戦争だけだと発言し続け、5年後には毎日新聞に芦田修正を暴露するのである。
 マッカーサーにいたっては、はるかに冷徹であった。当時、マッカーサーは沖縄とアメリカ軍の軍事的一体化の中で、日本の軍事力はない方が都合がいいと考えていただけである。本国政府は、再三にわたって日本の再軍備の可能性を打診してきてはいたが、マッカーサーは朝鮮戦争が勃発して自身の情勢判断の誤りに気がつくまで、反対し続けたのである。
 
 その後の保守・改憲派は、憲法9条を非常にご都合主義的に利用してきた。
 あるときはアメリカとの協調(圧力)やソ連の脅威、冷戦後は国際貢献というエクスキューズで9条を骨抜きにかかり、あるときは、アメリカからの軍事協力要請を拒否する盾として、9条を利用したのである。

 これに対し、護憲派は、すでに知られるように当初から存在していたわけではない。共産党は当時、軍事闘争路線を歩みかけていたし、社会党は内部の路線対立に悩まされていた。結局、紆余曲折の末、社会党や共産党がいわゆる「護憲派」を形成するのは、制定から10年たってからになる。
 その一方で、古関が明らかにしたように、憲法制定当時、国民の多くは憲法に非常に賛成し、特に9条の平和主義は絶賛された。当時、政府の国策団体であった憲法普及会が各地で懸賞論文を募集しているが、そのほとんどが憲法9条の精神に心からの賛意を示したのである。
 しかし、GHQはそうした人々が「民主化の担い手」になるこを決して許さなかった。そのため、こうした流れは草の根に広まり、50年代の平和運動を高揚させていく原動力に発展していく。

 制定から10年後、鳩山内閣が改憲を画策すると、左右社会党は合同し、共産党と共に護憲勢力を形成する。
 だが、それはあくまで政略的な理由であった。社会党や共産党は、草の根の護憲勢力を政治的に取り込む一方、彼らが目指したのはあくまで社会主義革命であった。日米同盟に反対する一方でワルシャワ条約機構に加盟するべきだといった議論が真剣に交わされ、アメリカの核戦力を批判するうえでソ連の核戦力を正当化する論調が80年代までみられるのである。
 草の根の市民たちの間も複雑であった。原因は苛烈な戦争体験である。このことを明らかにした小熊英二「民主と愛国」(新曜社)によれば、苛烈な戦争体験と戦争中に決して反戦の旗を翻すことのなかった共産党に対する重い負い目が、彼ら、戦後自由社会の中でユートピア的、空想的な平和主義運動に身を投じていく原動力となったのである。
 戦場で銃を構えた者。戦争に抗しきれず転向した者。転向とまではいかずとも傍観・沈黙していた者。実は戦争協力者だった者。
 そうした苛烈な体験、取り返しのつかない過ちを犯した悔恨があいまっていたところに、全く想定外の憲法9条が誕生したのである。
 彼らは、自らのコンプレックスを払拭するために、反戦ヒューマニズムという、(共産党より)極端な形で「美化した物語」を生み出していく。
 だが、それは鏡氏がすでに喝破したとおり、単なる生存権エゴイズムにすぎなかったのである。

((3)につづく)

※(3)は、一身上の都合により2月中旬にアップします。
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by foresight1974 | 2007-01-14 22:45 | 9条問題

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