理想とルールと選択と(4)

 (3)のつづき
 ということで。。。で終わっては、鏡氏とTSUNAMI氏に大変申し訳がないので、ちゃんと続きを書きます。(笑)

 ことわっておくが、私が回答するのは、鏡氏の問題設定そのものではない。
 氏の問いに答えるならば、「ない」と答えるか、「たくさんある」と答えるほかないからである。
 しかし、鏡氏の問題設定の意図を合理的に解釈するならば、「新たに9条を支える思想的根拠を生み出すとしたら何か?」という問いを設定し、回答を試みる意義はあると思う。

 そこで、以下に述べることは、私が憲法9条に込めたいと思っている、現時点では私の個人的な理念にすぎないことをお断りしておく。
 すでに長々と書いているように、憲法9条の理念をこのように「発展」させたところで、国民の多数が「イヤだ」といってしまえばそれだけのものにすぎない。

 新たに9条を支える思想的根拠とは何か?
 それは、人間の尊厳を擁護する手段的権利という意味での、平和的生存権である。




 第二次世界大戦の最大の不幸とは何か。それは、人間を人間として扱わない戦争だったということである。
 日本で戦時中よく読まれたと言われるマンガ「のらくろ」では、中国人を豚と描いている。
 また、戦時中のスローガン「鬼畜米英」という言葉、その他、戦後民主主義の下で葬り去られた数々の罵倒語は、要は、相手に人間的価値を否定しなければ、人間を殺すことができない、人間の弱さの裏返しでもあり、それをスローガン化して何億もの人間が争った狂気なのである。
 戦争の最大の害悪は、こうした結果、人間の尊厳が徹底的に蹂躙されることにある。
 ならば、そこから、人間らしいヒューマニズムをどのように擁護するべきか。
 20世紀後半、安全保障の発想を国家を中心とした国防政策から、個人としての人間そのものを保護するための、人間の安全保障という新しい概念が提唱されるようになった。
 戦争という非常事態の下でも、人間の弱さをありのままに認めつつ、ときには、弱い人の心の痛みを分かち合うという人間的なヒューマニズムそのものを、愛国的、偏狭なナショナリズムから擁護しなければならないのである。
 
 そこで、国家として平和を希求する政策が非武装であろうと武装であろうと、日米同盟であろうと中立であろうと、国家による大量殺人である戦争に、個人として関わることを拒否し、人間の尊厳を擁護する法的権利が必要である。
 その権利が平和的生存権である。
 これを日本国憲法が保障しているという条文上の根拠は、9条1項は主体が日本政府ではなく、「日本国民」となっていることである。あくまで、日本国民が日本政府に戦争を放棄させる条文なのである。
 この法的権利を過半数以上の国民が行使するならば、政府が採用する政策は、自然と非武装・中立といったものになるだろう。過半数以下の国民しか行使しない場合であっても、政府は全ての国民に法律で戦争への協力を強制することはできない(当然、憲法が最高法規なわけだから)。ドイツやフランスの良心的兵役拒否と似ているが、要は、国家の大量殺人への無条件奉仕を拒否する盾として機能し、よって人間の尊厳を擁護することが可能にする権利なのだ。

 繰り返しになるが、こうした「思想」はそもそも憲法9条が制定当時に予定したものでは全くない。
 戦後60年、日本国民が日米同盟やアメリカの核の傘に守られ、ときには間接的に戦争へ協力しながら、半ば偽善的に存続した自称「平和主義国家」の中で、そうした偽善性を見抜き、憲法9条を「題材」にして、現実と「対話」することによって培われてきた、憲法学の発展の成果を「生かす」ということである。
 
 ここまで我慢して読まれた方の中にはお気づきの方もおられるかと思う。
 「Foresight1974の主張は、結果的に『生存権エゴイズム』を擁護しているだけじゃないのか?」と。
 お答えしよう。全くその通りである。
 私は、生存権エゴイズムも反戦ヒューマニズムも全く悪いことだと思っていない。

 人間は、他者の醜悪な殺し合いを嫌悪する一方で、スリル満点のバトルアクションに楽しみを覚え、また、自分の肉親を殺害した犯人に殺意を覚えるほどの激しい復讐心を持つこともある動物である。
 こうした動物に、非暴力や不服従といった行為を一般的なルールとして強制することは不可能である。鏡氏は、インド独立の指導者ガンディーの例を引き合いに出したが、こうした行為はあくまで個人的な「仁徳」がなせるものであり、「ルール」として一般化できるものではない。
 要は、人間は弱いということである。
 しかしながら、そんな人間であっても、遠いアフリカでの悲惨な戦争に心を痛めるときもあるし、911同時多発テロのときには、「アメリカ政府」の一方的な被害者ヅラに辟易した面はあるにせよ、グラウンド・ゼロに祈りを捧げる、「一人一人の被害者の痛み」に心から寄り添いたいと思うこともある。
 その気持ちに、私は嘘や偽善はないと思っている。

 暴力に快感を覚えることも、他者に出来うる限りで慈しみの心を持つことも、どちらもいたって人間らしいことだと思っている。
 この両極端なブレに脅え、そこにエゴイズムを見出すことは正しい。人間の限界を知るということは非常に有益である。
 だから、それ以上をルールや思想で乗り越えることは私は不可能だと思う。
 
 法律に出来ることは、その人間らしさを、戦時下という非常事態で、社会全体が殺し合いに盲従している中でもなんとかかんとか、守ることがせいぜいである。
 がっかりされる方もおられるかも知れない。
 しかし、私はこのことに新しい可能性を見出している。
 (3)で語ったような対話が積み重なることによって、人間の「業」を知り尽くしたものが、新しい英知を見つけ出すことが可能かもしれない。
 (ちなみに、私の「英知?」については、憲法哲学(29)以降で述べたい。)
 
 人間の愚かさも素晴らしさも、ありのままにひっくるめて、人間らしさとして擁護したい。私はそう思っている。
 最後に愛敬浩二「改憲問題」の一節を引用してこの論考を締めくくることにする。

 主権者は君たちです。自分でよく考えて、友人と腹を割って議論をし、自分の責任で決めてください。


 まさに、それを絶対的に「保障」するための9条だと考える。
(この論考はこれで終了します。)



 追記:
 ずいぶんと偉そうなことを書きましたが、この記事はTSUNAMIさんのブログを見てから3日で考えた思いつきであることを告白しておきます。苦笑 

 追記2: 
 以前、私は長谷部恭男の憲法論を「肉を切らせて骨を断つ護憲論」だと評したことがある。
 「比較不能の価値の迷路」、「憲法学のフロンティア」、「憲法と平和を問いなおす」で展開される長谷部憲法学のエートスは、何らかの一定の価値観を「ルール」として国民に強制することを巧みに避けつつも、現在、日本ではマイノリティ化しつつある(というか、本当は戦後一貫してマイノリティであった)憲法9条の擁護論に新たな地平を開く視点があると直観しているからである。

 追記3:
 今度こそ、約束を守ります。
 次の更新は、2月中旬です。苦笑2

 追記4:
 「理想」と「思想」を打ち間違えました。正しくは、「思想」です。。。苦笑3
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by foresight1974 | 2007-01-17 21:27 | 9条問題

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