理想とルールと選択と(1)

今沢:たとえば、この喫茶店は普通の喫茶店よりも、音楽を大音量でかけるでしょう。
小熊:今沢さんは、本当にいろんなジャンルの音楽を自分で聞いて選んで、曲順まで指定して流していますよね。私もそれが魅力でこの喫茶店に通っている。
今沢:ところが、スタッフに「店内で音楽を途切れさせるんじゃない」といっただけで、すごいことになるんですね。「途切れさせなければいいんでしょう」となっちゃう。
小熊:なるほど。
今沢:それで一言じゃわからないだろうと思って、たとえばそれをもっと細かい文章にして、マニュアルみたいにしたとするでしょう。そうすると、今度は、それに僕が規定されちゃうんですよね。
小熊:自分がつくった物語に自縄自縛になっちゃうわけですね。
(中略)
今沢:結局、最後には面倒くさくなって、スタッフにはもう「メニューをちゃんとつくれ。」とか「店を開けてくれてさえいればいい。」とかくらいしか、言えなくなってくるんですよね。
小熊:なるほど。
今沢:そうなると、そのスタッフが、やる気があるかどうかで左右されちゃう。
(小熊英二「対話の回路・秘密の喫茶店」より 新曜社)




 鏡響子氏のブログ「致死量の毒薬」に掲載された、「私と自衛隊とゲバ棒と」という記事が注目を集めている。
 平和を愛すると口にする人々が、なぜ「反戦闘争」などという矛盾したスローガンを掲げ、ゲバ棒を持つのか。鏡氏はこのように読み解く。

 「平和を愛する」といいつつ、その同じ人から、暴力への渇望が生まれることはよくある。全共闘世代の人々は、「平和と民主主義」を求めて立ち上がったのだろうが、ゲバ棒を持たずにはいられなかった。ゲバ棒は、自分たちを弾圧する警察に対する、必要最低限の「自衛のための道具」だったらしいが、それはすぐに攻撃のための道具に変化した。彼らは自分たちを、平和主義者だと思っていたかもしれないが、やはり、私がエアガンを持つことに充実を見出したように、ゲバ棒を攻撃的に使うことに、充実感を覚えていたのではないか、という気がする。もし、本当に彼らが「ゲバ棒」という武器を持つことに喜びを感じない「平和を愛する」人々であったなら、もともと「平和と民主主義」を求めたはずの運動が、「連合赤軍」という暴力の渇望へと発展することはなかったのではないか、と思うのである。


 ここで、鏡氏は問題を提起する。

 「9条を守ろう」、、、と主張する場合の、日本人の思想的な根拠は何なのか、、、ということなのである。

 「9条を守ろう」、ということの根拠は、「戦争は無実の人々が大勢殺しあいをする愚かな惨事であるから、戦争には反対だ。」・・・だから9条を守ろう、とか、「国民の生存を脅かす国家による戦争の脅威は許されない。」・・・だから9条を守ろう、、ということなのだろうか・・・・・。しかし、、、私には、これはあまり9条を守る根拠にはなりえていない気がするのである。というのも、これらの9条を守るための理由には、生存を脅かされることへの恐怖、自らの生存権を確保するためのエゴイズムが見え隠れしているような気がしてならないからだ。

 このような「生存を脅かされれることへの恐怖・嫌悪感」から戦争に反対しても、9条を守り抜くことはできない、と私は思う。なぜなら、もし「自分の生存が脅かされることへの恐怖・嫌悪」が、戦争反対の第一義的な理由なら、「生存を脅かされないために自衛の武器」を持つことは、いとも簡単に許されてしまうのではないか、と思うからである。そして、生存を脅かされたくない、という人間のエゴは、武器を持つ喜びと、底のところでつながっていると私は思うのである。そして、ゲバ棒が必要最低限の自衛の道具だったのに、警官を殴る攻撃用の武器にすぐに変わったことを思うと、「最低限の自衛のための自衛隊」などというものが本当に自衛のためにだけ存在しうるものなのか、その不確かさを思わずにいられないのである。


 鏡氏は、その鋭い洞察力で、生存権エゴイストたちの貧困なメンタリティを告発しているのである。
 だが、その指摘はまだ核心への途上にある。
 それならば、なぜ、生存権エゴイストたちは、自らの呪縛に気がつかないのか。あれほど、心温まるようなヒューマニズムを語る人々が、なぜ、自らの「エゴイズム」に無自覚でいられるのか、という問いが残っている。
 この問いを検討することは、9条の思想的根拠を検討する前に、ぜひ指摘しておきたいところである。
 
 例えば、日本の保守派は「単一民族」にまつわる様々な非現実的な物語(例えば、万世一系など)に縋りつくことが広く知られている。
 なぜ、そのようなことが起きるのだろうか。
 それは、一見、「カオス」にしか見えない世界に対する恐怖を克服するため、世界を見渡す枠組みを作り出す必要があるからである。
 しかし、その枠組みに頼ってばかりいると、やがて物語に自縄自縛になり、現実に裏切られていくことになる。皇室典範改正問題で、「Y遺伝子」などという珍説を用いて男系天皇制度の維持を擁護しようとした愚劣な保守思想家が、世間で嘲笑されるようになるのだ。
 要するに、彼らの言動が一面では、自己のエゴイズムに根差しているとしても、もう一面では、自己の恐怖を乗り越えるための「美化した物語」が用意されているのである。そのため、自己のエゴイズムに対して多くの人々が「無自覚」でいられるのである。

 だが、保守派を笑ってばかりもいられない。なぜならば、「戦争は愚かだから止めよう」という素朴な「反戦ヒューマニズム」は、まさに護憲派にとっての「単一民族の物語」として機能しているからだ。
 反戦ヒューマニストたちがいくら「戦争は愚か」だと主張しても、その反戦ヒューマニズムが、自己の美化した物語に自縄自縛されている限り、これからも現実に裏切られ続けることになる。
 事実、各種世論調査で、いわゆる「9条を守るブロガーズリンク」の作者たちの主張に共感していると思われる項目について、非常に低い支持に止まっているのは、鏡氏が指摘する「生存権エゴイズム」の存在と、もう一つ、彼らが美化した物語が現実に裏切られていることの傍証である。
 (ついでにいえば、自衛隊支持派が「自分が武器をとって戦うか」という問いに非常に消極的であることにも無関係ではない。)
 このことは9条の思想的根拠を語るうえで、大きなリスクがあることを示している。
  
 そのうえで、鏡氏の指摘にはどのように応じるべきだろうか。
 鏡氏の記事に強い共感を示した「ソフィスト倶楽部」ブロガー・TSUNAMI氏は、こう書いている。

 私の想像では、鏡さんのこの重大な問題提起に対して、正面から答えられる護憲論者はほとんどいないのではないだろうか。「馬鹿にするな!」とお怒りになる方がおられれば、是非とも応答して頂きたい。


 そこで、差し出がましいようではあるが、鏡氏の問いに誠実に応じてみようと思う。

 だが、その前にポイントをもう一つだけ述べておきたい。
 それは、日本人にとって「ルールに対する物の見方」である。この点について確認しておかないと、議論が混乱してしまうのだ。
 そこで、冒頭の引用を利用して説明を試みたい。

 喫茶店店主である今井の指示は、その店での「ルール」といえる。だが、その「ルールに対する見方」は、店のアルバイトの女子学生たちと大きく異なる。彼女たちは、今井の指示=「ルール」の意図を十分に読み取れていないのである。
 彼女たちは、あくまで「(音楽を)途切れさせなきゃいいんでしょ」という理解にとどまる。そこから進んで、今沢の指示の真意がわからないままに、失敗のリスクを引き受け、今沢の真意を探ろうとするコミュニケーション力の「強さ」がある日本人は、とても少ない。
 これは、彼女たちの能力不足のせいではない。

 木村元彦が書いた「オシムの言葉」の中に、現サッカー日本代表監督イビツァ・オシムが、前任のJEF千葉監督時代でとった指導法に関するエピソードを数多く紹介している。

 (オシムは)「2チームに分かれてハーフコートで1対1をやれ」
 選手は言われたとおり1オン1を始めた。・・・成り行きを漠然と見ている両チーム。・・・するとオシムはいきなり、負けている選手のチームに向かって言った。
 「お前ら、何で助けに行かないんだ!・・・1対1で攻めきれずに苦しんでいるなら、サポートに行って2対1にすればいいじゃないか」
 日本的思考で行けば監督の最初の指示に従っているのだ。だいいち、1対1で助っ人が入ったらフェアーじゃない。
 ところがオシムは、実戦で1対1が5秒も6秒も続くシチュエーションはない、なぜ指を銜えて見ているんだと言う。・・・眼前のワークに集中するだけではなく、その意図も考えなくてはいけない。理解さえできていれば、やってはいけないことは何もなかった。


 このことを、オシムは選手たちに理解させることに、大変な時間をかけたのである。
 なぜなら、JEFの選手たちも「監督の指示に従っていればいい」という、ルールに対する閉じた思考がなかなか抜けなかったのである。
 オシムの意図が浸透すると、選手達は急激に成長した。かつては毎年のようにJ1降格争いを演じていたJEFの選手たちが、ナビスコカップを連覇するまでになったのである。

 これらのエピソードからいえることは、日本人はルールに対する見方として、「~さえすりゃいいんでしょ」という、「閉じた思考」が、一般的に幅広くみられる、ということである。
 このことは、ルールについての思想を語るうえで、大きな限界があるということを示している。
 
 例えば、9条というルールに対して、護憲・改憲問わず日本人一般に見られる物の見方には共通点がある。
 それは、9条に「解釈の幅」があるという事実を受け入れようとしないということだ。
 文言自体、非常に断定的であることにも原因があるのだが、憲法学者たちの9条解釈論がまるで「神学論争」であると揶揄されるのは、長期間続いている歴代保守政権の世論操作による影響を差し引くとしても、冒頭の引用に見られるような「ルールに対する閉じた思考」とも無関係ではない。
 護憲派は、9条を「武器を捨てさえすりゃいいんでしょ」と意図するから、そこに非現実な絶対平和主義思想を埋め込んでいくわけであり、一方、改憲派も、9条を同じ見方で捉えるからこそ、その呪縛から逃れるため、9条の骨抜きと改憲の「二兎を追う」のである。
 こうした人々に、9条の思想を語ったところで、それが物語化しない保証はどこにもない。また、それが「護憲の切り札」になるとも思えないのである。
 そして、いずれは現実に裏切られていくのである。

 鏡氏の素晴らしい点は、9条を巡る護憲派のエゴイズム・メンタリティの貧困さを暴露したことにある。だが、それは護憲派の人々が決して人間的に劣っていたからではない。日本人の「ルールに対する閉じた思考」にも、大きな原因がある。

 そこで、鏡氏の問いに答えるということは、この「閉じた思考」を打破することであると考えている。((2)につづく)
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by foresight1974 | 2007-01-13 19:10 | 9条問題

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