foresightの憲法哲学(27)「絶対的平和主義というリアリズム(1)」

 さて、前回までは一般に流布している改憲派の「現実主義」は、考えられているほど「現実的」ではないということを論じてきた。

 では、護憲派の典型的主張と考えられている「絶対的平和主義」による憲法9条擁護論―自衛隊や日米安保による安全保障システムを否定する考え―は、「非現実的」なのだろうか?



 この一般に流布されている「幻想」に挑んだのが、愛敬浩二が著した「改憲問題」(ちくま新書)である。
 ただし、愛敬のアプローチはいささか異なる。非武装中立、理想主義としての9条擁護論にリスペクトを払いつつも、彼の主張は、そうした擁護論を展開することの政治的「効用」に主眼が置かれているのだ。この点が非常に興味深い。

 愛敬の狙いは二つある。一つは当ブログが再三やってきたように、改憲派の「現実主義」という嘘を暴くこと。もう一つは、理想主義、良き生き方としての9条擁護論を、その倫理的優越性よりも効用に主眼を置いた主張展開することによって、護憲派の憲法9条観を転換しようとしているのである。つまり、「国家政策としての憲法9条」ではなく、「国民が国家に抗して、平和を主張できる憲法9条」への転換である。
 この発想は、政治的には「人間の安全保障論」、憲法解釈学では、「平和的生存権」につながっていく考え方である。

 だが、この発想には憲法解釈学として重大な欠点を一つだけがある。日本国憲法は、第3章「国民の権利」として平和的生存権を規定しておらず、あくまで、第2章「戦争の放棄」において、「国家の誓い」としての憲法9条という体裁にしていることである。
 もちろん、これは憲法制定当時の発想という限定ではあるが、憲法がそもそも予定した9条の考え方ではないことは明らかである。
 いわゆる「死者の憲法」論の問題だ。

 しかし、この欠点は、重大ではあるが致命的ではない。
 なぜなら、リベラリズム的憲法学では、この問題に対する解答を準備してあるからだ。ロナルド・ドゥオーキンが「自由の法」で指摘した「連鎖小説の比喩」である。
 「連鎖小説の比喩」とはそもそも、「今を生きる」裁判官が、なぜ制定当時の立法者意思から離れて、憲法解釈を行うことが出来るのか。つまり、民主主義手続を経ていない裁判官が自己の意思で憲法を解釈し、その判決結果を国民に強制できるのか?という疑問に答えるために用意された回答である。
 ドゥオーキンによれば、このような疑問は見せかけにすぎない。なぜなら、裁判官は、憲法を解釈するにおいて「純一性」という価値を受け入れているからである。彼の判決は、憲法が持つ普遍的価値観と法原理に可能な限り整合的でなければならない、という拘束(純一性)を受けているのである。
 連鎖小説の比喩は、この拘束原理を説明するために用いられる。「連鎖小説は各人の書く章それぞれが物語全体の部分として意味を成しており、裁判官はこのように共同で連鎖小説を創作する作家に似ている」。「彼は自分自身のことを、過去や未来の他の公職者たちのパートナーとして、彼らとともに首尾一貫した憲法道徳を作り上げていく者とみなさなければならず、自分の貢献が他の部分と適合したものとなるように気を配らなければならない」のである。
 「連鎖小説の比喩」は、判例法主義の英米法ならではの発想といえるかもしれない。が、日本も憲法をはじめ、英米法の影響を大きく受けている。その証拠に憲法76条3項に裁判官は「法と良心」に拘束されると規定し、この考え方を予定しているのである。

 愛敬の発想においても、同様の説明が可能である。
 愛敬が目指す9条擁護論の転換は、制定当時の憲法の普遍的価値、つまり、国家権力は絶対無制限なものではなく、憲法規定による制限を受け、国民は人権規定によって国家権力から自己の自由を防衛することが出来るという価値観を、連鎖小説によって発展させたに過ぎない。
 憲法の重要な理念(ミッション)である平和主義の実施が、国家機関によって期待できないならば、その盾としての平和的生存権という人権を主張することによって、自己の自由を防衛することが可能だ。適用される条文は、憲法学者により、13条(幸福追求権)や9条、憲法前文など様々であるが、いずれも解釈学内部の対立に止まり、実質的差異はない。

 これも、いわゆる革新勢力が一度も議会で多数派を構成することがなかった、日本の政治事情を大きく反映しているといえるだろう。
 だが、まさにその「事情」に対置する愛敬のこの主張こそが、「絶対的平和主義というリアリズム(現実主義)」なのである。
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by foresight1974 | 2006-12-10 08:29 | 憲法哲学

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