ドラッカー、そしてイビツァ・オシムを読み誤る勿れ

「(ドラッカーが著した)「経済人の終り」「産業社会の未来」にはじまり、「会社という概念」「現代の経営」「経営者の条件」など50年代から60年代にかけての経営書、そして「断絶の時代」以降の社会批評に至るには一貫した流れがあり、それは歴史的な背景を勘案して読み解かなければならない。しかし、複眼的な読み方をされる本は読者によって理解のレベルが違ってくる。ドラッカーの場合も、後期の社会論が過剰に評価されたことから、それが生み出された原点が忘れされれることになった。」
(喜文康隆「さらば渋沢資本主義・ドラッカーを読み誤るなかれ」Foresight2001年1月号 新潮社)




 サッカー日本代表監督就任が確実視されているJEF千葉監督イビツァ・オシムに関する報道が過熱している。
 ここまで来ると、JEFサポータの私としても、オシムの日本代表監督への情熱を認めざるをえない。ただ、オシムは「代表監督のオファーは光栄だ」と語っているが、日本人の方こそ、光栄に思わなければならないだろう。このような指導者をあおぐなど、日本人には身の程が過ぎる。
 本来ならば、世界基準には程遠い日本サッカーなど、一流の指導者たちは見向きもしない。「キャリアアップ」にならないことを知っているからだ。
 イビツァ・オシムは、複雑な民族問題や痛ましいボスニア紛争をくぐり抜け、旧ユーゴスラビアをはじめ、ヨーロッパ各国のクラブチーム・代表チームで素晴らしい成績を残してきた、世界的名将である。それが、東京オリンピックで来日して以来の親日家で、JEFの祖母井秀隆などの信頼できる人物がいるというだけで、今日までこの国で指導にあたっているのである。
 そして、65歳を過ぎても衰えることのない情熱は、世界が見向きもしない「日本代表監督」という、火中の栗を拾うリスクを冒そうとしている。
 日本サッカーは、今後30年はないであろう幸運に恵まれようとしているのだ。
 ところが、W杯の無様な敗退劇を何ら総括することなく、協会と広告代理店の思惑通りに、日本サッカーが動かされようとしている。
 その象徴たる出来事が、メディアによる「オシム語録」の安っぽい、実に安っぽい引用である。
 見るからに人間的な軽薄さが顔から滲み出たテレビのコメンテーターたちが、こぞってお気に入りの「語録」を引用しては、あれこれ突付き回している様は、行儀を知らない子供が、一流の寿司屋のカウンター越しに、好き勝手にメニューを注文している様子と二重写しになる。
 胸の悪くなる光景だ。
 
 稀代のアフォリストであるオシムの言葉を理解するには、覚悟がいる。
 経営学ではドラッカー、経済学ではケインズ、政治学では丸山真男といったように、知の世界では、各分野に、その人物を語ることで、語る側の知性を試されるような人物が存在する。
 イビツァ・オシムの「語録」を語るすることは、その人物のサッカー観、スポーツとメディア・政治権力とのバランス感覚を賭けた作業になるのである。
 かつて、日本の経済界で経営学者のドラッカーが持て囃された時期に、経済ジャーナリストの喜文康隆は、冒頭の引用のような警鐘を鳴らした。
 喜文は、経営学者から「社会生態学者」に看板をかけかえたドラッカーを批判しつつも、一方で、ダイエー会長だった中内功や、自他共に認める「ドラッカーの窓口役」上田惇生など、ドラッカーを礼賛する日本人達のアンソロジーを次々に斬り捨てていく。
 喜文は、ドラッカーの言葉の普遍性に決して盲ではない。だが、同コラムの中で、ドラッカーの著作が発表された時代背景を指摘しつつ、その「歴史性」を理解した上で読まれるべきだという、まっとうな主張を展開しているのだ。

 だが、残念なことに、ドラッカーの言葉と同様、「オシム語録」も軽薄なマスメディアと広告代理店の格好の消費の対象にされつつある。
 徴候はすでにある。
 それはジャーナリスト・木村元彦が、オシムの半生について著した「オシムの言葉」に関する、ネット上の「書評」に見つけることが出来る。
 同書の評価については、大きく二分することが出来る。
 一つは、オシムの人生をありのままに理解し、その半生を正面から鑑賞したもの。もう一つは、ウィットに富んだオシム語録を「そのまま」味わいたいというもの。要は、オシム語録が生まれた背景など不要であり、同書は「語録」をただ並べていればよいというものである。
 他人の読書鑑賞に口を挟む愚を承知で言わせてもらうと、正解は前者である。
 本書の目的ははっきりしている。木村は、自らのライフワークである90年代のユーゴサッカー三部作の一つとして、同書を位置づけている。
 木村は、戦争とオシムの人生の全てを「結び付けたくはない」と本文で断りを入れている。しかし、オシムは決して歴史から浮いた存在ではない。オシムの人生は、祖国の歴史、悲劇の内戦、民族問題、メディアと政治権力。木村は、そうした関わり合いとの中で、「オシム語録」を考えるべきだというメッセージを込めている。
 ネットの書評の中には、同書の中に収められている木村のサラエボ紀行を無用と断じたものがあったが、思い上がりもはなはだしい。オシムの言葉が生まれた母国の「空気」を知らずして、オシム語録を知ったかぶりするテレビのコメンテーターと同罪の愚昧だ。

 オシムやドラッカーの言葉を理解する作業が、多くの一般市民にとって、大変な努力を要することは分かる。
 だが、ジャーナリストたるもの、経営者たるもの、学者たるものが、その努力を怠り、お気に入りの「オシム語録」をお喋りの対象とすることは職業倫理にもとる、卑しい行為である。
 そんな連中のために、テレビ局は高額な出演料を払っているのである。

 そして、こうしたメンタリティは今にはじまったことではない。
 人生50年で織田信長が理解され気分になり、改革なくして成長なしで小泉純一郎が支持されてしまうというように、この国の国民には、言葉を聞いただけで本質を知った気になるような、ファジーなメンタリティが存在するような気がしてならない。
 サッカー日本代表監督でいえば、ハンス・オフトは「トライアングル」、加茂周は「ゾーン・プレス」、フィリップ・トルシエは「フラット3」、そしてジーコの「自由」「黄金の中盤」。といったように、その代表時代を語るキーワードがある。それらの言葉は、単純化しやすい用法で、誰でも「サッカー」を語れる安易さに満ちている。
 日常のニュース報道を見ても、テレビのコメンテーターたちが毎日毎日、本来は複雑な社会制度について、それはもういちいち図表にするのもバカらしくなるくらい単純化したフリップで紹介している。
 だが、それでいいのだろうか?
 確かに、本当は複雑で解決困難な問題を、「簡単に考える」ことは、議論の整理として重要な作業である。だが、複雑な問題をいたずらに単純化した図式に置き換えるのは、マスメディアによる詐欺である。

 喜文は、コラムの結びで「マルクスの思想はマルキストが広めゆがめた。ケインズの思想はケインジアンが広めゆがめた。ドラッカーの思想を広めるのもゆがめるのもドラッカー主義者=ドラッキストである。」と書いた。
 イビツァ・オシムを広めゆがめるオシム主義者=オシミストは、果して誰だろうか?
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by foresight1974 | 2006-07-02 01:37 | サイレント政治・社会評論

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