簡単に「惨敗」と書くな

 友人とジーコ監督の言うところの「自由」について語り合ったとき、彼が面白いことを言った。
 「まー、サッカーを自由にやれって言われてディフェンスにこんなに人が残る国は日本だけだよ。」
 ジーコが目指した「自由」の重みについて、これほど的確に指摘した言葉はないと思う。



 小学生がサッカーをやったり、外国人がサッカーをしたりするとき、ボールがわあっと人が集まったり、攻めに行ったきり誰も戻ってこない、ということはしばしば起こる。
 日本人の草サッカーですら同じ光景は見られる。
 だが、自由なサッカーを目指していたはずの日本代表選手は、3試合ともゴール前に釘付けになり、その前のスペースから放たれたミドルシュートで失点を重ねた。

 今回のジーコ・ジャパンの敗退は、過去2大会との重みがまるで違う。
 まず、「黄金世代」と騒がれた世代が主役となっていたこと。
 次に、日本人を軽蔑し、決して信用することなく、選手をシステムの牢獄に閉じ込めたトルシエに代わって、日本人と長く付き合い、その才能を信じて、自由なサッカーを標榜したジーコだったこと。
 そして、前回大会の決勝トーナメント進出という実績から期待された重みがある。野球に比べて、サッカー界の「日常」は、日本社会への浸透度がはるかに低い。代表試合は満員になるが、2万人程度のスタジアムでも空席が目立つJリーグがそれを証明している。黄金世代とメディアが囃した分、今回の代表「惨敗」に対する幻滅は、日本社会に大きく広がることが懸念される。

 友人は、ジーコの「賭け」を一貫して支持し続けた。確かに、その哲学は崇高なもの、新しいサッカーを開く可能性に満ちたものであることは理解できる。
 だが、ジーコはその可能性に値する努力をどれほど傾けただろうか?
 強化試合が終わるとすぐブラジルに帰国し、選手発掘への視察は少なかった。
 代表合宿では、戦術練習は一切やらず、中学生がやるようなシュート練習を行った。
 柳沢、高原、小野といった、一部の選手は調子が万全ではないにも関わらず使われ続け、準備に万全を期していた「国内組」の不信を買った。
 松田直樹らの規律違反行為は許されるものではない。だが、彼らと和解し、自らにかけられた疑惑を払拭するための態度を何度示しただろう?

 結果として、本大会出場を世界中のどの代表より早く決定したにも関わらず、その恵まれた環境を活用することが出来なかった。
 松田らへの制裁が解除されなかったことで、DFの選択オプションが限られたものになった。
 少なすぎる強化試合と、無駄に多いホームゲームでも強化試合は、代表の客観的位置を把握することを著しく困難にした。
 ジーコは自由なサッカーを目指していたことを、筆者は微塵も疑っていない。
 だが、固定されすぎたレギュラー陣、工夫の足りない練習法、制約されすぎた強化プランは、ジーコの「自由」を結果的に自分で縛ってしまうようなチームを作り上げてしまった。

 とは言え、敗退の最大の原因は選手達自身にあると言っていいだろう。
 この3試合、解説の井原正巳は一貫して、「DFラインが下がりすぎる」と指摘し続けた。
 DFラインが下がるのは致命的である。日本代表の戦術の核となる、中盤のプレスが機能しなくなるからだ。サッカー通を気取る御仁に「中盤のプレスが機能しないからDFラインが下がる」と吹く者がいるが、逆である。DFラインが下がってスペースができ、広くなった中盤で数的優位が保てなくなるのである。 
 DFラインを下げて守るという手は戦術的にありえる。だが、それは有効なのはフィジカル面で優位に立っている場合である。それに劣るチームがDFラインを下げても、守りきることは極めて難しい。

 ではなぜ下がるのか。ここで冒頭の友人の言葉につながる。
 1対1で負けることへの恐れと呪縛である。
 海外のクラブや代表チームが規律をなぜ重視するか。早い話、攻撃に行ったきり戻ってこず、守備をサボって自滅することを防ぐためである。
 外国選手とのフィジカル面での劣勢を補うなどというのは、実は日本独特の発想と言っていい。
 日本人のフィジカル面に関する劣等感。この致命的弱点の改革こそ、ジーコ・サッカーの真髄である。そして、その賭けにジーコは負けたのである。
 宮本、中沢らのDF陣は、最後まで自分達を信じてラインを上げられなかった。プレスにかからず相手に自由にスペースを利用される悪循環の中で、フィジカルに対する劣等感が増幅されていく。
 「取れない相手に引いて守る」悪循環。
 そして、その深い位置から飛び出して、相手と1対1の勝負に持ち込む「サムライ」は、ついに現われることがなかった。

 自分を信じて相手に当たっていく。何度負けても食らい付く。最後の笛が鳴るまで走り抜く。
 サッカーがうまい、ヘタ。体がでかい、小さい。を論じる以前の、スポーツ選手としての基本的姿勢に欠けていた彼らは、メディアが持ち上げた黄金世代だったはずである。誰よりも自らの才能を信じて良い世代だったはずだ。
 彼らは自分達の与えられた自由に自信を持ってプレイしていただろうか?

 今、恐れていること。
 それは、結局ジーコ・ジャパンへの極端な否定論から、また「フィジカル・コンプレックス」が蔓延することである。
 そして、そこから発想されるネガティブなシステム規律論が日本サッカーの未来と可能性を塞いでしまうことだ。

 最新のニュースでは、日本サッカー協会はJEF千葉監督のイビツァ・オシムに次期監督就任を打診しているという。だが、「オシム語録」に川渕がいくら心酔しようとも、結局はプレイするのはピッチの中の選手たちである。ベンゲルが8年前、同じことをスポーツ雑誌のインタビューで述べているが、問題は解決されていない。
 変わらなければならないのは、代表監督だけではない。
 マスコミが考えるべきは、こういうことだ。そこを考えずして、簡単に「惨敗」と書くな。
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by foresight1974 | 2006-06-24 23:06 | サイレント政治・社会評論

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