半月城通信「アサヒビールと靖国神社」に関する疑問

 今週も、自分とほぼ政治的立場を同じくする方に苦言を申し上げたい。
 そんなことをチマチマやっていると、バカウヨクどもに日本国憲法を「スティール」されかねないほど、現在の日本のリベラル陣営は貧弱なのであるが、内輪の議論に妥協して馴れ合うのは最も自分の嫌うところなのである。

 今回取り上げるのは、在日朝鮮人の社会問題を取り上げ続けていらっしゃる半月城さんのサイト「半月城通信」に掲載されたアサヒビールと靖国神社の関係についてである。

 同サイトによれば、アサヒビールの最高顧問・中條高徳が「国事行為たる戦争の犠牲者を祀る靖国神社に詣でる事をしない政治家に、国政に参加する資格はない」と新しい歴史教科書をつくる会のHPに書いていることである。(リンクはこちら

 半月城氏は、これをアサヒビールの公的見解であるかのように捉え、アサヒビールに再三の抗議を行うとともに、中條の解任を要求している。

 アサヒビールはこれに対し、中條の個人的行動であることを説明し、今後、個人的行動に関しアサヒビール最高顧問の肩書を用いないよう「厳重に申し渡した」としている。

 果して、これらの諸点について法的問題はあるのだろうか?私の見解は半月城氏と異なる点がいくつかある。



 第一に、アサヒビール最高顧問の肩書で政治的発言を行っても、同社の公的見解とはいえないということだ。
 平均的な日本国民ならば、このような発言は、「個人」としての見解であることはほとんどが承知するであろう。なぜなら、日本の社会において、社内で政治について会話が交わされることはほとんどなく、アサヒビールほどの巨大企業が、思想的傾向をもつ会社だなどとは認識しえないからである。
 
 したがって、まずこの発言は、中條なにがしの個人の資格に基づいて発言されたものであり、アサヒビールに中條の個人的言動に対する監督責任が発生する問題ではないということになる。
 むしろ、この問題について責任を取るべきは「つくる会」であろう。日本社会では、こうした肩書の者が発言する場合、文末に「以上の文章は、あくまで○○の個人的見解に基づくものであり、○○社の見解を代弁するものではありません。」旨の注意書きを付さなければならないことになっている。
 アサヒビールが個人の見解だとことわった以上、不手際はつくる会側にあり、こうした措置を取らなかったことでアサヒビールに対して、中国国民などによる不買運動が起こされた場合、つくる会のアサヒビールに対する不法行為(民法709条)が成立することになる。

 以上のように、半月城氏の抗議はその方向性からして「お門違い」であると思われる。

 第二に、中條なにがしの個人的言動について、中條へのアサヒビール社内における処分を要求することは正当か?

 基本的には、このような場合、たとえ中條なにがしが耄碌していたとしても、その発言に対してあくまで言論で対抗すべき性質であり、会社の処分として最高顧問の解任等の措置を取ることは不当であろう。
 
 なぜなら、こうした「有名人(公人)」であれど、等しく日本国憲法が保障する表現の自由の保障を受けられるのであり、個人の立場で政治的発言を行うことで、社会的に不利益を受けることは、憲法14条の法の下の平等に反するからである。

 特に注意しなければならないのは、この場合において中條なにがしの処分を正当とすると、中條の見解と反対の立場をとるアサヒビール社員にも等しくそのルールが適用されてしまうということなのである。
 なぜなら、反対の見解をとるアサヒビール社員がいた場合、その発言について同じような抗議が行われた場合、アサヒビールが受けた不利益に対して、同様に社内で処分することが出来てしまうことになる。

 日本社会では、経営者も含めサラリーマンが政治的発言をできる環境は著しい制約があるのが現実である。就業規則で職場内での政治運動は厳しく禁じられ、それに対する懲戒処分が現状、合法であることになっている。
 また、勤務時間外においても、社員が政治運動に関わっているという噂が立つことは、日本社会では信用問題に関わる事態になりかねず、通常、そうした社員は穏やかにスポイルされるのが現実なのである。
 断っておくが、私は中條なにがしという耄碌爺さんの言を擁護しようとは一片だに思っていない。人の商売の邪魔をするような老人は是非表舞台からご退場願いたい。
 だが、耄碌発言に対し不利益処分を課すことは、法や社会による個人の自由への不当介入に道を開きかねず、結局は「ひいきの引き倒し」のような結末に陥りかねない。

 自分の個人的な好き嫌いと思想信条を貫くことは別である。言論の自由は、どのような老骨にも等しく適用されるべきであり、それが耄碌の類であろうと、憲法上の保障を受け、発言に対する社会的不利益があってはならないと考える。

 信念とは本来、そういうものであると思うからである。
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by foresight1974 | 2006-03-05 21:18 | サイレント政治・社会評論

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