ゲームメイカー退場-中山素平の功罪を問う-(By foresight1974)

 みずほフィナンシャルグループのシステム・トラブル騒動は、古い世代の頭にかすかに残っていた「興銀のよさを残して欲しい」という郷愁をかき消してしまった。日本興行銀行の魅力は「コーポレート銀行」という仕組みにあったのではない。それぞれの人材のなかに埋め込まれた起業家精神にあったのだ。それを誰も理解しなくなったとき、「名前」だけではなくその「実体」もなくなった。それどころか「さらば興銀」と惜別の歌をうたう人さえ見当たらない。
 興銀は消えた。そして誰もいなくなったのである。
(キ文康隆「経済報道解読ノート9・惜別の歌もうたわれず消えていった興銀」Foresight2002年5月号 新潮社)




 19日に死去した中山素平・元日本興業銀行頭取を「財界の鞍馬天狗」と賞賛するのは簡単だ。だが、後世を生きることになる我々が果たすべきは、中山の光と陰を冷静に見つめ直すことである。

 富士製鉄と八幡製鉄の合併、65年証券不況時の山一救済、アラビア石油へ関与した頃は「そっぺい」と「興銀」が最も輝いた時期だった。難題解決の鮮やかな手腕と、あくまで産業界の黒子としてのバンカーの姿勢は、当時の少年たちのヒーロー・鞍馬天狗と重ねられる部分が多いにあったのであろう。渋沢的理想主義を良質な後継者だった中山は、65年に山一證券を救った後、3年後には会長に退き、さらに2年後にはそれも辞して相談役になり、「見事な引き際」と言われた。
 表舞台から去った後も、教育問題に心を砕き、尚美学園の寄付に奔走した中山は、間違いなく大物財界人であり、戦後日本の成長を支えた「ゲームメイカー」だったのである。

 しかし、前掲のキ文は1998年、92歳の中山が官僚接待スキャンダルで興銀の特別顧問を退いたとき、「中山素平は二度引退した」と評した。それは、中山が会長を退いてから30年余り、興銀の相談役・特別顧問となって、すべての重大案件の相談を受け続け、興銀内部に「権力の二重構造」を敷いたことを指す。80年代半ばの国鉄分割民営化では重要な役割を果たしてもいる。
 政財界と太いパイプを持っていた中山は老いてなおゲームメイカーだったのである。そして、それは「長期信用銀行制度」の歴史的使命が終わりを迎えつつある中で、「興銀」がそのメンツを守るためだけの役割となっていったのである。
 尾上縫の跳梁を許し、節操なき官僚接待にまみれていく中で興銀に関わった多くの人の人生が狂い、未来への可能性を失った。中山はその中にあっても自らの権力の二重構造を決して手放さなかったのである。
 日本の戦後復興を支えた最強の民間インフラから「起業家精神」が失われていく中、多くの人材が興銀を去っていった。楽天の三木谷はその象徴である。みずほ銀行が同グループのみずほコーポレート銀行への振込にも手数料を取るという、バカバカしい形で三つのメガバンク統合が実現した時点で、「興銀」は名実ともに消えてしまったのである。

 そして、中山の後に中山はいない。
 人口減少時代の日本に新しい資本主義社会のグランドデザインを描くのが竹中平蔵、谷垣禎一、麻生太郎、中川秀直、中川昭一、、そしてそれを束ねるのが小泉純一郎。
 役者が軽すぎると評すべきである。

参考文献:
喜文 康隆「さらば渋沢資本主義1・二度潰れた山一證券と二度引退した中山素平」(Foresight1998年5月号 新潮社)
同「さらば渋沢資本主義17・大合併で誕生するのは第二の帝国銀行か」(Foresight1999年9月号 新潮社)
同「キ文康隆「経済報道解読ノート9・惜別の歌もうたわれず消えていった興銀」(Foresight2002年5月号 新潮社)
滝澤 拓「日本興業銀行のぼんやりとした不安」(Foresight1999年1月号 新潮社)
日本経済新聞2005年11月22日・23日朝刊・夕刊など
[PR]
by foresight1974 | 2005-11-23 23:28 | 企業統治の公共精神

Let's think about day-to-day topics.


by foresight1974