報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(後編)

ここに政府は連合国総司令部との緊密なる連絡の下に憲法改正草案の要綱を発表する次第であります。
(幣原喜重郎 1946年3月6日憲法改正草案発表時の謹話より/出典:古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波現代文庫)




ここからは、古関彰一の学説に基づくものではなく、筆者の私見(推理)をお話しする。

GHQ案を受諾した以降の幣原の発言、あるいは本人から聞いた証言は、憲法9条の発案者は幣原自身との内容で一貫している。
確かに、1946年3月の枢密院における幣原自身の証言をはじめ、その後に読売新聞の記者の聞き取りによって綴られた「外交五十年」、幣原を取材したジャーナリスト(報道ステーションで報じられた中部日本新聞元政治部長・小山武夫の証言など)、羽室メモ、幣原の秘書官だった平野三郎の証言(憲法調査会に提出されたこの証言は、一般に「平野文書」と呼ばれる)にいたるまで、一見して証拠は数多く積み上げられているように見える。
しかし、ここで肝心な点を見落としてはならない。
幣原は、1951年3月に心筋梗塞のためこの世を去っているが、当時、日本はまだ独立を回復していないのである。

草案発表の翌月、1946年4月に、日本史上初の男女平等の普通選挙が行われるが、単独過半数を占める政党は現れなかった。このため政権の枠組み作りが難航し、幣原が進歩党に入党して存続させるという案も浮上したが、第一党となった自由党の反発に遭い挫折。吉田茂が天皇の組閣命令を受けて内閣を組織し、幣原は無任所大臣に回ることになる。
吉田内閣は日本国憲法の制定と施行に大きな役割を果たしたが、翌年の総選挙で比較第一党となったのは日本社会党だった。日本国憲法下で衆議院の指名を受けて組織された初の内閣である。
社会の分裂は大きく、労働争議も頻発していた時代である。一方で共産圏の台頭を恐れたアメリカの議会では、悪名高い下院非米活動委員会が設置され、いわゆる赤狩りが始まった。こうした中で1950年6月に朝鮮戦争が勃発する。
一時は釜山まで資本主義陣営は追い詰められるが、アメリカ海兵隊が仁川に上陸するといったんは戦局が逆転する。が、中国が北朝鮮側に立って本格的に介入するとこう着状態に陥った。
経済は朝鮮特需に沸くが、政府は早期に独立を回復する必要に迫られていた。だが、世論は全面講和論と単独講和論、真っ二つに割れていた。
幣原は当時の首相・吉田茂が率いる民主自由党に所属し、衆議院議長の要職にあった。未だにGHQの検閲も続いている中、そもそも憲法制定時における秘密を自由に語れる立場ではない。むしろ、憲法制定時の秘密を守り通し、独立回復を達成しなければならない立場であった。
一連の証言は、そうした時代に幣原が語り、幣原から聞いた証言のものである。独立後、何らの政治的プレッシャーが存在しない状況で、幣原が真実を語れる場面で得られた証言は存在しないのである。

一方、マッカーサーの側には、全く別の動機が存在していた。
マッカーサーというとGHQ最高責任者というイメージは誰しも持っているだろうが、1948年に大統領選挙に立候補していた事実をどれだけの方がご存知だろうか?
実は、マッカーサーは、立候補のため早々に日本の占領を終わらせるよう、本国政府に何度か打診している。しかし、理解を得られないまま、1948年3月に共和党から立候補したが、結果は予備選での惨敗に終わった。現役軍人の立候補に対する世論の批判は強かったのである。
そうでなくても、前編で述べたように、マッカーサーは本国政府の了解なしにたびたび暴走した。日本国憲法制定も、実際には本国政府の了解を事後的に取り付ける形で、強引にやってのけてしまう。
その後勃発した朝鮮戦争において、マッカーサーは当時のアメリカ大統領・トルーマンと決定的な対立に発展した。中国に対して原爆を使用するよう主張したのである。軍人でありながら、度々のに政治的発言に業を煮やした本国政府は、1951年4月にマッカーサーをついに解任してしまう。幣原が死去した翌月のことである。
帰国したマッカーサーを待ち受けていたのは、ワシントンからの政治的な報復だった。
アメリカは当時、F・ルーズベルトから20年近く、民主党政権が続いていた。共和党員だったマッカーサーは、その功績によって外されていなかったが、いったん実権を失うと政治的な標的とされる。5月3日から3日間、上院外交委員会と軍事委員会の公聴会で証言に立つことになるが、民主党はマッカーサー解任の正当化、共和党はその非を追及する、という政治的対立の構図があった。そして、マッカーサー自身も自己の占領政策を正当化しておきたい事情があった。翌年、再び大統領選挙への立候補を目指していたからである。
5月5日、憲法9条の提案者が幣原である、という証言はこうした政治的状況の中で行われた。
国際法の世界において、日本国憲法の制定が「誰の手によってなされたか」は微妙な問題である。ハーグ陸戦法規第43条では交戦国を占領した場合、占領地の現行法律を尊重するよう要求しており、GHQによる日本国憲法の制定の「押し付け」は、国際法に抵触する可能性があった。日本国憲法の制定は、明治憲法の法改正手続によって進められたのもこうした事情に基づく。マッカーサーとしては、政治的な失点を防ぐため、是が非でも日本国憲法の制定は日本政府の自発的な手によるものと正当化しておきたかったのである。
こうした事情を読み解いてみると、冒頭に記した幣原の謹話は、何やら意味深ではある。

むろん、これらはあくまで推理であって、歴史にIFを持ち込む愚を冒すことを承知で想像するに、もし、幣原が独立回復後も生存したとしても、同様の証言を繰り返した可能性は否定できない。今後、新たな歴史資料が発掘される可能性もわずかながら残されている。
しかし、最低限これだけは確認しておきたいが、報道ステーションの当日の放送内容から、憲法9条の提案者が幣原喜重郎によるものと確定させるのは余りに危険である。

もっというならば、別に憲法9条がマッカーサーの強引な押し付けであったとしても、今の日本に生きる私たちが恥ずかしく思う必要は何一つない。憲法9条に定める崇高な平和主義思想を支持するか、支持しないかは、私たちが自分の頭で考え、自由に決められるはずだからである。

(補論に続く)

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by foresight1974 | 2016-03-19 17:53 | 9条問題

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