報道ステーション「憲法9条の提案者は幣原」説は正しいか(中編)

これは八月十五日につづく第二の敗戦であった。「押し付け」とは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した。(古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波現代文庫)




一方、日本政府側の事情はどうだろうか。
すでに松本四原則から毎日新聞の松本案のスクープまで、憲法改正に戦争放棄の項目が盛り込まれていないことはすでに指摘したが、当代一流といわれた法律家たちは、なぜGHQ案を出し抜く形で、画期的な憲法思想を提示することが出来なかったのだろうか。

マッカーサーは、きわめて早い時期から憲法改正の必要性を認識してたと考えられる。すでに、東久邇宮内閣当時の1945年9月13日には、当時無任所大臣だった近衛文麿に、憲法改正の必要性について明かしている。近衛の憲法改正の工作は、GHQの事実上の拒否と近衛の戦犯容疑者としてリストアップされることで潰れてしまう。その後成立した幣原内閣において、商法学者であった松本烝治を委員長として、憲法改正作業が進められていく。
しかし、この組織はほぼ機能しなかった。大変な自信家であった松本は、強力に委員会を主導したうえ、松本案として後に評価される甲乙二案のうち、甲案は松本がほぼ独力で、鎌倉の別荘で書き上げてしまう。一方、当時委員会に在籍していた美濃部達吉、宮沢俊義らの憲法学者は、憲法改正に消極的、はっきり書くとほぼ改正に反対していた。乙案は宮沢が中心になって作成されるが、それは小幅な改正に過ぎない甲案ではGHQを通らないと心配したから、という何とも消極的な理由によるものであった。
松本案は甲乙両案とも1946年1月23日からの閣議にかけられている。もし、幣原が戦争放棄条項を自ら提案したいならば、絶好の機会だったはずである。しかし、当時の閣議は字句の議論に終始したようで、「至尊」と「尊厳」の違いなど、後の結果を知る私たちのような立場から見ると、愕然とするような内容であった。むろん、幣原はこのタイミングでも戦争放棄について一切語った記録はない。
そして、この憲法改正作業について、幣原内閣は公式に、一度も、GHQに意向を確認しなかったのである。

後世の私たちからすると、奇妙なほど占領軍に無神経だったこれらの人々の頭の中について、合理的に説明できる方法はただ一つしかない。
戦争に負けたということがまるで分かっていなかった、ということである。

古関は「日本国憲法の誕生」の中で、「松本を中心とする憲法問題調査委員会のメンバーがポツダム宣言を受諾したことの意味、敗戦の意味、民主化政策の意味を全く理解していなかったことを指摘しなければならない。」と書いている。
幣原内閣は当時、マッカーサーからと大改革指令、すなわち婦人解放、労働組合の助長、教育の民主化、弾圧機構の廃止、経済機構の民主化についての指令を受け、一部を実行に移し始めていた。むろん、そうした事実も盛り込まれることはなかったし、天皇制についても1946年1月1日に、昭和天皇がいわゆる人間宣言をしていたにも関わらず、天皇大権の条項はほぼ改正されていない。
繰り返すが、松本委員会は当時の最高峰と言って差し支えない法律家たちで構成されていた。それをしてこの程度なのである。唯一、補助員だった佐藤功が、「現在の憲法改正事業は大東亜戦争に於ける我国の敗北の結果として、聯合国によつて要求せられてゐるものであると云ふ厳然たる事実を飽くまで忘れてはならぬと思ふ。」と警告を発したが、松本らが耳を貸すことはなかった。

松本案は、2月1日に毎日新聞のスクープなどにより、世に醜態をさらすことになる。が、これをリークしたのはGHQであることはほぼ間違いのないと考えられている。GHQは、2月8日幣原内閣から正式に憲法改正の大綱の提出を受けたが、これを全く評価することはなく、(前編)で述べたように、2月13日、自ら内々に作成していた案を幣原に提示する。

その後の交渉はほぼGHQのペースで進み、内容はGHQのほぼ完勝であった。
すでに戦争放棄条項はGHQから示されているが、その後の5日間、幣原が受入れを積極的に説いて回った形跡はない。18日に白洲次郎が松本案の説明書をGHQに持ち込むも、一蹴されて終わる。19日になってやっと閣議は開かれた。
閣議では、GHQは再三にわたり、昭和天皇を戦争犯罪人として裁くことが、連合国内で問題になっていることを示唆されていることや、日本案とは別に、独自の憲法改正案として発表する用意があるとも告げててきていることが報告されている。GHQ案として発表されたら幣原内閣は面目丸つぶれになる。
天皇が政治的に無力な存在になったことを憲法改正で証を立てる、その代わりに、天皇を戦争犯罪から免責させる。日本国憲法の誕生は、壮大な司法取引だった側面が確実に存在した。
この閣議では結論が出ず、21日に幣原はマッカーサーと直接会談に臨むことになる。しかし、事ここに至っても、戦争放棄条項に幣原は再び消極的な意見を述べたことが、当時幣原内閣の閣僚だった芦田均の筆録から判明している。だが、マッカーサーから大演説をぶたれた幣原は、日本側に交渉の余地がほとんど残されていないことを思い知る。
翌日、22日の閣議で幣原内閣はやっとGHQ案の受け入れを決定した。

こうして淡々と事実を羅列すると、日本側から「戦争放棄」などという革命的な発想が出てくる可能性について、絶望的に否定的にならざるを得ない。
当時の一流の法律家たちが、民主主義や基本的人権についての理解が根本的に欠けていたことは松本案を読めば一目瞭然である。政治家たちは彼らを掣肘しようとすることはなく、日本に起きる革命的な社会変化を積極的に主導することはほとんどなかった。GHQの不躾な要求に陰に陽に抵抗し、その多くが後に日本国憲法を「桎梏」ととらえるようになった。
こうした状況下で、幣原が戦争放棄条項を提案するという説は、ほぼ絵空事に思えるのである。

しかし、戦争放棄条項がGHQ―マッカーサーの提案だとほぼ間違いなく思われるが―からの提案だとすると、なぜ、報道ステーションで報じられたように、マッカーサー、幣原双方とも、まるで示し合わせたかのように「戦争放棄条項の提案は幣原から出た」と証言しているのであろうか。
そこには、マッカーサー、幣原双方に奇妙な利害の一致がみられるのである。

(後編に続く)

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by foresight1974 | 2016-03-12 21:47 | 9条問題

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