集団的自衛権の「解釈改憲」はなぜ間違っているのか(3)

 ある講演で加藤周一は、「わたしがイスラエル人ならば、たとえ公衆衛生の犠牲においても『専守防衛』の防衛というところに全力を挙げたかもしれない」と述べている。周知のとおり、加藤は「九条の会」の呼びかけ人の一人である。ならば、この発言は「加藤らしくない」発言なのだろうか。私はそうは思わない。私も、もし自分がイスラエル人ならば、絶対平和主義ではなく、軍隊を保持しつつ、「軍縮」と「外交」の必要性を訴えると思う。
(愛敬浩二「改憲問題」ちくま新書)




 これまでの連載でみてきたように、集団的自衛権をめぐる憲法解釈については、違憲説、合憲説双方とも理論的な難点を抱えており、その焦点は「憲法解釈の枠」の設定の曖昧さにある、ということがお分かりいただけただろうかと思う。(かといって、完全な文理解釈に近い絶対的平和主義は、長谷部が指摘したように、立憲主義と深刻な衝突をきたすことになる。)

 この理論的難点を克服するには、日本国憲法の解釈の枠についての「理論的限界」を探求する必要がある。
 ここでいう「解釈の枠」を探求するとき、2つの方面からの検討が必要である。憲法の一般的理論に従った「解釈の枠」という視点から議論を出発する場合と、“日本国憲法における”「解釈の枠」という視点から議論を出発する場合である。
 順に検討していきたい。

 一般に、憲法の理論的・思想的背景となる立憲主義とは、3つの内容を持つ。1つ目は、自由の基礎法として、権利・自由の保障が定められていること。2つ目は、制限規範として、権利・自由を侵害しかねない国家権力を分散して権限を制限すること。3つ目は、これらを最高法規という形式で担保することである。
 こうした立憲主義の内容において、平和主義がどのように位置付けられているか、必ずしも明らかではない。歴史的には、1791年のフランス憲法に侵略戦争の禁止を盛り込んだことを嚆矢とするが、それが憲法の一般理論としての共通認識を獲得したわけではない。第1次世界大戦の膨大な死者数によって、人類史上初めて、戦争が人類を滅亡させかねないことを痛感したヨーロッパ各国は、戦争の違法化に取り組みはじめ、国際連盟と不戦条約に結実する。しかし、いずれも国際法にかかわる分野のことであって、平和主義が憲法の理論として各国憲法に強調されはじめるのは、第1次世界大戦を上回る惨禍を引き起こした第2次世界大戦の後からである。
 1946年(昭和21年)に制定された日本国憲法は、比類のない徹底した戦争否定の条項が画期的なものであった。だが、こうした戦争否定の態度が各国で一致したわけではない。例えば、1946年のフランス第四共和制憲法、1949年の西ドイツ基本法はいずれも侵略戦争の制限ないし放棄にかかわるものにとどまっており、比較法的な観点でいえば、侵略戦争の否定といったところが平和主義に関する最大公約数的理解ではなかろうか。現に、国連憲章も戦争を一般的に違法としつつも、個別・集団的自衛権を加盟国に認めている。

 また、日本の護憲派内部においても、平和主義への物の見方は一様ではない。
 それが冒頭の引用の通りであり、著名な評論家・思想家であった加藤周一も、伝統的なリベラル護憲主義者の流れを引き継ぐ愛敬浩二も、保守・右派思想家からみたら、「バリバリのサヨク」であろう。が、そのようなまなざしを向けられる当人たちも、実は、軍備の必要性に関する議論のあり方が、各国で異なることを認めているのだ。

 究極的に個人の尊厳を擁護するためのシステムである立憲主義は、当該個人が生活する社会が平和に保たれることを当然の前提にしていることに疑いはない。が、為政者に対して平和主義に関する政策の選択肢に一定の枠を求める思考手法は、理論的な限界があることを認めなければならず、そこから日本において集団的自衛権の否定に至る結論を導くことはできない。

(つづく)

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by foresight1974 | 2015-08-02 11:42 | 9条問題

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