集団的自衛権の「解釈改憲」はなぜ間違っているのか(2)

(続き)
 ここで、私と同じ疑問をお持ちであろう方が、慶応大学教授・山元一である。フランス憲法学を主な研究フィールドとしている彼が、「THE PAGE」に寄せたインタビュー(聞き手:関田真也)の中で、違憲論への違和感を次のように表明している。




「自衛隊は設立当初から軍事組織であって、近年特段装備も変わったわけではありません。しかし、昨年の9月29日、政府の解釈に対して批判的な立場の学者で構成され、長谷部恭男教授や小林節教授も名を連ねる、国民安保法制懇の意見では、従来、自衛隊違憲説に立っていた他の有力な憲法学者も個別的自衛権肯定論に転換し、「内閣法制局の従来の解釈は国民熟議の賜物」とまで評価しています。そして、今はこの内閣法制局の従来の9条解釈を変更しないことが「立憲主義」だとまで言われています。議論の構造として、内閣法制局の解釈を都合良く用いているような印象があり、この点は問題ではないかと思います。」

 そして、本来の議論のあり方として、次のように説く。

「条文の解釈が正しいかどうかについては、もともと理論的に論証できるものではないと考えることもできます。政府や裁判所、政党、市民などが、それぞれの政治的、経済的、社会的利害に対する考え方から、それぞれにとって好ましい解釈を行い、自分が正しいと信じる解釈を認めさせるため政治的に闘っていると考えるなら、むしろこうした議論のプロセスを継続していくことこそが、民主主義の営みにとって重要です。学問的な立場からは、しっかりと議論をさせることを促すことが大切です。」

 このように踏まえたうえで、集団的自衛権と憲法との関係について、次のように主張する。

「日本国憲法と国連憲章は、決して分断されるものではなく、連続的にとらえるべきであり、それは9条の解釈をめぐる問題についても同様です。国連憲章は世界のすべての国々に国連への加入を促し(集団安全保障制度)、一定の武力の行使が認められる場面を自衛権行使の場合などに厳しく限定しています。このような国際立憲主義体制の下で、世界の国々が共通に納得できる国際公共価値の存在を真正面から認め、国際公益を具体化する法秩序の維持に関して、構成国としての関わりを重要と考える「積極的・能動的平和主義」の立場からすれば、憲法9条を持つ日本であっても、集団的自衛権を認めることは、将来的には唯一ではないにしても1つの選択肢になるでしょう。
 これは、いかなる平和思想を選び取るかという問題です。およそ武力行使を行うことを認めるものであるから、原理的に平和主義に反すると考えることは妥当ではありません。」

【以下注記】
 私は、山元の論文を精査した経験はないが、インタビューの論旨を踏まえて推測すると、山元は集団的自衛権合憲説のうち、いわゆる「政策説」(憲法9条には集団的自衛権を禁止する規定はなく、その行使の是非は政策レベルの問題とする説)に属すると思われる。
【注記以上】

 実は、こうした「集団的自衛権=合憲」という学説は、一般に考えられているほど物珍しいことではない。主な憲法学者では、駒沢大学教授・西修、京都大学教授・大石眞、中央大学教授・安念潤司といった、真っ当な学術研究者の中にも集団的自衛権を合憲と考える学者はいる。(なお、八木秀次や竹田恒泰といった輩はただのマガイモノであるのでくれぐれも真っ当な専門家と混同されぬことのないようご注意願いたい。議論の価値のない人間というのは残念ながら実在するのである。)

 こうした解釈の余地を生み出した背景には、90年代以降の憲法学説の多様化がある。それ以前のいささか一面的、一方的な自衛隊違憲論、絶対的平和主義への擁護論が後退し、従来の憲法理論を再度吟味し、時代の変化に応答可能なパースペクティブな解釈論を提供していこうという動きが盛んになった。きわめて私的な表現だが、いわば「憲法学説のポストモダン化」である。
 こうした多様化は、一方で長谷部泰男や松井茂記、古関彰一などの「やわらかい護憲論」とも形容される、一般の方にもなじみやすい護憲論を生み出す一方、「現実主義」か「現状追認」かは別として、西、大石、安念や山元らに代表される、自民党政権に親和的な憲法解釈を提供する余地も生み出した。
 
 もともと、成文法国である日本では、言葉と文章に忠実に解釈する文理解釈のほかに、拡張解釈や反対解釈、縮小解釈等様々な条文の解釈手法が許されてきた伝統がある。刑法等の例外を除き、その解釈は行政当局に大幅に委ねられており(比較法的には、日本法はその傾向が顕著であるともいわれる。)、最高法規たる憲法も例外ではない。例えば、衆議院の解散権の条文上の根拠、いわゆる「新しい人権」をめぐる議論など、条文によってかなり自由な解釈の余地を行政当局だけではなく、裁判所、学者たちも認めてきた経緯がある。従って、集団的自衛権=合憲説という主張が形式的な文理上の理由のみから、100%違憲であると直ちに断言することは本来難しい。

 だが、それでも合憲説の全体に共通する大きな理論的難点がある。
 それは、解釈の指針としての日本国憲法の「明文」を事実上無視しているに等しいことだ。本来ならば、憲法改正によって立法的解決を図るべき領域と解釈によって対応が可能な領域を混同し、憲法9条どころか、96条も事実上有名無実化することにつながりかねないが、その限界線をどこで引こうというのか。こうした素朴な疑問に答えられている意見がほとんどみられていない。
 従って、前掲の山元には次のような反論が可能だろう。「違憲説を“内閣法制局の解釈を都合良く用いているような印象がある”というならば、合憲説は、時の政府の場当たり的な安全保障政策を、単に事後追認するためだけの理屈を提供しているだけではないか。」と。
 この点で、前の記事で述べたように長谷部が理論的に解決していない問題と同様の限界を合憲説も見せているのである。

(つづく)
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by foresight1974 | 2015-07-25 22:07 | 9条問題

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