集団的自衛権の「解釈改憲」はなぜ間違っているのか(1)

 五月三日のある有力紙の社説に、こういうことが載っていました。あるシンポジウムで私が話したことが、マクラになっていました。およそ憲法というものをつくる目的、憲法を中心にして世の中を組み立てていく立憲主義という考え方の根本は、国民の意思によって権力を縛るところにあるということ、これは憲法教科書の最初に出てくる基本の基本です。そのことと関連して、私は、大日本帝国憲法制定にかかわる会議で伊藤博文が「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と語っていたことに触れました。
(中略)
 ところでこの社説は、私が伊藤の議論を紹介すると「会場に静かな波紋が広がりました」、というふうに、そのときの情景を書きとめてくれました。静かな波紋が広がるというのは、「おや?そうだったのか、意外にも」という感じを示す表現でしょう。
(中略)
 実は、前後して別のある新聞に私のインタビューが載りました。それを見てくださったある地方有力紙の幹部の記者が、こういう葉書を寄せてくださったのです。「憲法とは国民が権力を縛るものだという極めてピュアな問題提起を新鮮に思いました」、というのです。
 この二つの反応は、私に改めて、憲法学者は今まで何をしてきたのだろうか、ということを考えさせました。
(「いま、憲法は「時代遅れ」か (主権)と(人権)のための弁明」樋口陽一/平凡社)




 恥ずかしながら、冒頭の引用のうち、一つ目のエピソード(伊藤博文の憲法に対する考え方)については、私も樋口の著作に触れるまで全く知らなかった人間の1人であったことを白状しておきたい。
 仕事柄、憲法に関する本を読んだ数は、優に100を超え、20年以上様々に勉学しているにもかかわらず、対象は大日本帝国憲法と日本国憲法だけであるにもかかわらず、まだまだ勉強が足りないことを痛感した一節であった。

 が、もう1つ、この樋口のエピソードが示すように、憲法学者という職業が、日本という国家が平和に存続していくために重要な役割を担っているにもかかわらず、いわゆる象牙の塔に籠もって、学問研究の成果を広く社会に啓蒙したり、時局に対して積極的に意見を発信したりするということがおろそかになっていた、という反省はないだろうか。
 とりわけ、昨年の集団的自衛権の「解釈改憲」に続き、今月は安保法案の採決が強行され、立憲主義が危機に瀕している時期において、憲法学者の発言の責任の重さを今ほど痛感される時期はないと思われる。

 その意見発信の状況だが、いささか混乱した状況にある、というより、学者もどきの賛成派の意見(むろん、ちゃんとした憲法学者の賛成論もあるのでそれは後にご紹介したい。)への応酬に引きずられる形で、安倍政権のなした「解釈改憲」への批判がやや性急な印象を全般的に受ける。
 確かに、立憲主義、法的安定性といったワードが今回のキーであることは疑いがない。が、私のような薄学者がいちいち指摘するまでもなく、立憲主義や法的安定性といったキーワードから「ただちに」「理論的に」解釈改憲が間違っている、という結論を導き出すことは困難である。後述するように、立憲主義、法的安定性を害しないというロジックを構築している憲法学者も実際におられる。

 私の立場を最初に述べておくと、今回の解釈改憲に断固反対である。
 が、これから構築するロジックはいささか遠回りに感じられる方が多いと思われる。例えていうならば、東京駅から新宿駅に向かうのに、中央線快速電車を利用するのではなく、山手線で品川・渋谷、あるいは上野・池袋を経て新宿に至るようなイメージになる。
 その理由は、現状の反対派の見解には理論的な難点がいくつか存在するため、その点を批判・克服しつつ、それでもなお、今回の「解釈改憲」がなぜ間違っているのかという、より堅牢性の高い論理を構築を目指しているからである。

 さて、現在の一般的な報道等によって整理すると、反対派の意見について、法律上の論拠を次の2つに集約できる。
(1)そもそも9条は従来の政府見解も含めた自衛権という概念を認めていない
(2)従来の憲法解釈を一内閣の政策的な判断で変更するのは立憲主義に反する

 このうち、(1)については、いわゆる絶対的平和主義という思想に基づく主張と考えられる。が、この理論の難点は、皮肉にも今国会での戦争法案に関する公聴会において、違憲の見解を示された早稲田大学教授・長谷部恭男によってなされている。一般の方が一番手に入れやすいと思われる、「憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書)に沿って説明していこう。
 長谷部によれば、(1)の法的思想を支える、いわゆる絶対的平和主義は、それが道徳的に正しいからそうすべきだという思想に立脚するものだが、それが個人の生き方としての倫理として語られるならともかく、国の政策の執行として実現することは、「何が善き生か」という倫理の強制になりかねず、立憲主義と衝突をきたす、というのである。
 あくまで非暴力による平和を希求する考えと、例え武力を用いても大切な人を守りたい、という考えは、本来、倫理的にどちらが優越しているというものではなく比較不能な価値観である。ところが、一方の考えの押し付けるような政策の執行は、それを相容れない価値観の持ち主への侵害となりかねず、個人の価値観・思想・信条等を守るため、公共的言論空間を通じてなされた民主主義的意思決定に一定の枠をはめることを目指した立憲主義とは容易には整合しない(なお、反対の政策を執行する場合も同じ難点に直面することも長谷部は指摘している。)というのだ。

 このまま、長谷部の理論をたどってみよう。
 長谷部によれば、憲法9条は絶対的平和主義を規定したものではなく、「穏和な平和主義」を規定したものだという。その理論的背景となるのは、「合理的自己拘束」の理論だ。
 合理的自己拘束とは、国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって合理的な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらすきけんに対処するには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を決定し、そのことを対外的に表明することが合理的な対処法といえる、というものである。つまり、(1)と異なり、憲法9条の明文から導かれる一般的な理解に忠実であることを必ずしも求めているわけではない。解釈の一定の幅を本来的に認めるもので、政府の従来解釈を合憲とする余地も認められるものだ。
 では、その枠はどのように設定されるべきものだろうかという点になると、長谷部の理論の限界がみえてくる。前掲書によれば「ときに、憲法9条から導かれるとされるさまざな制約が「不自然」で「神学的」であるとか、「常識」では理解しにくいなどといわれるが、こうした批判は全く的が外れている。合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、(中略)なぜそこに線が引かれているのかにはさしたる合理的理由がないとしても、いったん引かれた線を守ることには、合理的理由がある。」という、何とも無味乾燥な見解にいたってしまう。「解釈改憲の限界論」を考える素材として全く説得的ではない。

 ところが、(2)の見解の限界も、実はこの長谷部の見解の限界と50歩100歩というところである。確かに、一内閣の決定によって憲法の重要条項の解釈を変更することは、国家権力を分散(分立)して、権力を制限する立憲主義の潜脱につながりかねない。が、現実には、9条をめぐる憲法解釈は制定後10年内に何度も何度も変更がなされ、長谷部のいう「いったん引かれた線を守るべき」というならば、そもそも吉田内閣の初期に出された(1)とほぼ同様の見解を守るべきはずであろうが、(2)を論拠とする論者に、この問題への回答を提示した学者がほぼいない、という状況だ。
 (2)の見解は究極的には「長く定着した解釈を突然変えるな」という意見とニアリーイコールであって、長谷部のいう「いったん引かれた線だから」という以上の論理的な根拠が示されておらず、いささか情緒的な批判ですらある。その理由は、(2)の見解は「ではいったいどのような手続を経れば解釈改憲は容認されるのか?」という疑問が欠落しているからだ。言い換えれば、「憲法制定初期の場当たり的な憲法解釈の変遷を事後的に追認しただけのことを、さも合理的な理由があるかのように偽装しているだけではないか?」という疑問に答えられていないのである。
 自民党の政治家たちが、今回の解釈改憲にあたって「憲法学者たちは、最初は自衛隊だって違憲だと言っていたじゃないか。」という反論は、(2)の見解に限っていえば、残念なことに至極真っ当な批判とすら評価できる。

(つづく)

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by foresight1974 | 2015-07-19 23:19 | 9条問題

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