青色LED訴訟は日本社会に何を残したのか?(By foresight1974)

 先月和解となった青色LED訴訟につき、考えをまとめたので書き記しておきたい。

 ご存知ない方もいると思うので、一応事実関係をお話すると、青色発光ダイオード(LED)の発明対価をめぐり、中村修二カリフォルニア大学教授とかつて勤務していた日亜化学との間で訴訟が起きていたもので、先月11日に8億4千万円の和解金を日亜化学が中村氏に支払うという形で和解が成立した。同種訴訟としては金額は過去最高額となったが、中村氏が求めていた1、発明品の特許権の帰属と2、発明対価201億円(1審の東京地裁は600億円と認定している)のいずれも認められなかったため、和解内容としては中村氏の全面敗北に近い結果となった。



 青色LEDは電圧をかけると青色の光を発する半導体素子で、1993年に日亜化学に在籍していた中村氏が開発したものだ。いわゆる色の三原色である、赤、緑、青のうち青の開発が最も困難であるとされたものだが、中村氏は社内の逆風や孤立した研究環境に負けずに開発を続け、ついに発明にこぎつけた。この半導体素子は液晶パネルから六本木ヒルズのイルミネーションまで、様々な場所に応用されており、日亜化学に莫大な利益をもたらした。青色LED開発以降、同社の売上は4倍に増加している。
 しかし、日亜化学が当時中村氏に支払った発明報酬はたったの2万円。失望した中村氏が退職すると技術流出を恐れた日亜化学は執拗に中村氏を追い詰めようとした。カリフォルニアに移った中村氏にディスカバリー(当事者照会)をかけ、家宅を捜索し、研究環境を制限しようとしたのである。4年前に中村氏が日亜化学に対し、東京地裁に提訴したのは、そうした長年の嫌がらせに決着をつけようとした意味もあり、また報復的な意味もあったと思われる。

 そうした事情もあってか、訴訟が起きると中村氏は一躍時の人、ヒーローとなった。各種ビジネス雑誌に引っ張りだこになり、表紙写真をファイティングポーズをかまえた姿勢で飾り、本を出版して日本の製造業の研究環境や教育制度を痛烈に批判し続けた。また、中には傾聴すべき点もあって中村氏の言動は大きな支持を集めたのである。
 
 しかし、中村氏の訴えに対し、司法判断は消極的であった。1審は中村氏の発明の貢献度を50%と認定し、200億円の対価支払いを日亜化学に命じて世間に衝撃を与えたが、中村氏が当初から求めていた青色LEDの特許帰属を認めなかった。2審は結審した後、両者に和解を勧告したため判決が下されることは無かったが、日経によると裁判所が両者に示した和解案は6億円程度だったと言われる。この額は、日亜化学に対する中村氏の貢献度をたったの5%だとしたのである。中村氏の原告代理人をつとめたま升永弁護士は必死に交渉したが、遅延賠償金の2億円を上積みするのが精一杯だったのである。
 しかしながら、「世紀の発明品」とまで言われた特許をめぐる裁判なだけあって、支払額の8億4千万円は同種訴訟としては最高額となった。和解成立にあたってコメントを寄せたキャノンの丸島儀一氏によれば、「世界最高額」だそうである。多少の皮肉もこめていると思われるコメントだが、そのまま載せる日経も日経である。

 事情を知らずに一読された方は、「立ち上がったヒーロー中村氏」が「消極的な司法判断」に敗れ、「日亜化学の高笑い」という図式を思い浮かべたことだろう。
 確かに日亜化学は勝った。小川社長は、「主張をほぼ裁判所に理解いただけた。」とのコメントには余裕すら漂っている。私は、日亜化学の勝利が決して良いことだとは思わない。提訴されて以来、同社は一貫して世間ズレしたコメントを出し続けた。筆者の勘だが、同社はおそらくこの勝利から何も学ばないだろう。青色LEDを世に送り出したが、それ以外に社会に貢献していない同社が市場から退場するのは時間の長短の問題に過ぎないと思っている。
 しかし、中村氏が勝てば良かったのだろうか?答えは断固として否である。

 まず、第一にいくら世紀の発明とはいえ、発明対価200億円の支払いを裁判所が決めて日亜化学に命じることが妥当だとはとても思えないからである。今回の訴訟の争点となったのは特許法35条にいう発明の対価を発明者に支払うという規定だが、いくら払えば良いのかということについては具体的な定めは無い。本件訴訟においても、1審判決が600億円、そして2審・東京高裁が提示した和解案が6億円というように事実認定がバラバラになっていた。日経報道によれば、「いくら高収益企業でも終身雇用を前提にしていた元従業員に10億円以上の報酬を認めるのは経営慣行からみて行き過ぎ」だという心証を持っていたようであるが、あながち外れた心証とはいえない。例えそれが600億円の報酬に値する発明だとしても、その報酬を提訴を回避して、事前に日亜化学が中村氏に支払うのは事実上不可能であろう。経営判断でも算定できない、あるいは想定できない発明対価を裁判所が決定するというのは、特許法35条の求めることではない。
 第二に、中村氏の掲げる「本当の実力主義による企業社会」という考えにどうしても賛成できないからである。もっと言えば、氏の言動に対して私は懐疑的な思いを最後まで拭うことが出来なかったのである。
 日本の企業社会を「共産主義」と批判し、「技術者が正当に評価される社会」を訴える。あるいは教育問題に踏み込み、大学入試制度の廃止などを訴える。しかし、これら氏なりの「日本社会のイノベーション論」は次の質問に収斂される。「では、『正当な評価』はどのように測るのですか?」裁判上の問題もあり、それを金額面、数字面でしか答えられない中村氏に本当の不幸があるような気がする。
「会社の不当な扱い」を熱っぽく訴える。それはそれで一面の事実であろうし、実際に多くの支持を集めた。だが、「正当な評価=金額」という、大衆には分かりやすいが単純化されすぎた主張が、結果としてこの裁判の社会的意義をほとんど無にしてしまったのである。
そのポピュリズムな姿勢は、実は裁判中の一貫していないコメントによく表れている。1審の東京地裁が中間判決で中村氏の特許帰属を否定すると「失望した」とコメントしたかと思えば、巨額の対価支払いを命じると、「正義の判決」と持ち上げたりする。氏にとっては特許帰属こそが大事だと言い続けたはずだが、いつの間にかその部分の訴えは取り下げられ、発明対価のことばかりを言っている。確かに、日亜化学を退職してから受け続けた圧力から自身を守るために、世論を味方につけるという現実感覚は必要ではあっただろう。しかし、世論は青色LED訴訟を「何やらわからないが、すごい発明についての巨額の裁判」という印象しか持たれなくなってしまった。職務発明のあり方、相当な対価を裁判所が定めるあり方などの大きな論点が、金額の多寡という矮小化した論点に収斂したという点において、私はこの裁判の意義について大きな疑問を持っている。
 もちろん、中村氏は自分の人生を守る権利があるし、氏がいわば人柱になってこの問題の社会的意義を問うようなストイックさを強制することは誰にも出来ない。だが、結局のところ壮大なエンターテイメントに堕してしまったことで、この社会的問題は本質的な解決をほとんどみることなく和解に至ってしまったのである。彼は「日本の企業社会で技術者が正当に評価されるような環境を作りたい」と訴えているが、彼の言動を見た者からの「結局はゼニカネの問題だけじゃないか?」という疑問にどれだけ説得力のある回答をしたのだろうか。様々なインタビュー記事を読んだが、そうした疑問にほとんど触れたものは無い。

 そして、この両者の主張を聞いていた裁判所は、この問題の本質を解き明かすために一体何が出来ただろうか?次回のブログにてその点のお話をしたい。

※参考記事
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by foresight1974 | 2005-02-13 13:42 | ビジネス法務

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