表現の自由に対する橋下徹の「一知半解」

民主主義社会の成熟度はどこで測られるべきか?
私は、価値観の異なる意見がどれだけ許容されているか?に尽きると思う。
それはただたんに1つの意見として存在しているだけではない。
「そのような意見がどうして存在するのか?」ということを、
相手に考えさせる機会、そして義務を負わせることも含まれる。



そうした点において、日の丸・君が代を学校の卒業式・入学式で掲揚・斉唱するかどうかについての論争は、興味深い指標としてみられると思う。

その議論の「分かりやすさ」という点においてだけではない。
「長年にわたって議論が戦わされてきた」という点においても、貴重な思索の材料を提供してくれているように思う。

さて、大阪では昨年6月、教職員に君が代起立斉唱を義務づける君が代起立条例が施行されていたが、今年の卒業式で起立しなかった教職員が8名いたとのことであり、大阪府教育委員会は懲戒処分を科す方針とのことである。(2012年2月24日毎日新聞より)

これに対し、条例制定時の大阪府知事であった橋下徹がツイッターで激昂の発言を繰り返している。
「バカ教員の思想良心の自由より、子供たちへの祝福の方が大事だろ!」
「国旗、国歌が嫌なら、日本の公務員を辞めろって言うんだ。」
「一部トンチンカン職員がいることで、組織全体の信用が失墜する。一生懸命頑張っている公務員にとって迷惑なんだよ。分かってるのかね、不起立教員!」
とまあ、幼稚園児のようなわめきようである。

だが、注意しなければならないのは、橋下はいわゆるウヨクとは違う政治的傾向を持った人物であるということだ。
憲法9条の改正を主張する一方で、犯罪者の実名報道に反対、原子力発電所の再稼動に反対といった主張には、彼がいわゆる「ウヨクのワンセット」に収まらない、無定形な思想的傾向を持っていることがうかがえる。
日の丸・君が代の問題について、日の丸掲揚に反対・君が代斉唱時の不起立への教員への罵倒を繰り返す一方で、一般の国民についてはそうした行動をとる自由があるとも述べている。

が、その無定形ぶりは、この問題の微妙さ、本質の根深さ、尊重されるべき価値観についての深い考察や定見を欠いた主張にあらわれているように思う。
ツイッターで

日本国の公務員なら、君が代に敬意を払え。敬意とは起立して歌うこと。これが社会の常識であり、国民大多数の普通の感覚。せめて、子どもたちの晴れ舞台は、厳粛なムードで祝福してあげろ。それが嫌なら、日本国の公務員を辞めて、自分の主張を通せる仕事をしろ!身分保障に甘えるな!(橋下徹ツイッターより)


という発言には、表現の自由に関する彼の「一知半解」ぶりが透けて見える。

公務員・普通の感覚・社会の常識・・・。
それらを自分が市長に選ばれたことのみを持って代弁できるという、
恐るべき傲慢さ。

その「当然」という考えについて、不起立という行動で疑問を投げかけることすら許さないということが、表現の自由を保障するべき社会に、どれだけ深刻な打撃となるか。
そのことへの想像力が欠如しているのである。

公務員は全体の奉仕者であって政治的な中立性が求められることは、基本的には正しい考え方だが、
彼らは政治家の奴隷ではない。
政治家に雇われているのではなく、国民・市民に雇われているのである。
その彼らが、命令に反して、
厳粛な卒業式というものが正しいのか?
と職務をかけて疑問を投げかけているわけではある。

今年も命令に反して不起立に及んだ教員が出る、ということは、
議論はやはり決着しないのである。

決着しない社会が健全なのか、
強制の下で決着させ、どこかの全体主義国家のような卒業式が執り行われることが健全な社会なのか、
もう一歩、深く考えるべきではないだろうか。
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by foresight1974 | 2012-02-26 16:58 | 表現の自由への長い道距

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