戦後65年目のプロパガンダ

「大東亜戦争」下の総動員態勢がひきおこした、クダラナイこと、知っていても役に立たないこと、人類の運命にとってはどうでもよいことを厳選して収集しました。なにとぞご笑覧のほど、よろしくお願い申し上げます。
虚構の皇国blogより)




著者には申し訳ないが、「神国日本のトンデモ決戦生活―広告チラシや雑誌は戦争にどれだけ奉仕したか」という本を、大きな本屋でちょっと立ち読みした。
近現代の歴史書コーナーに埋もれていたのだが、草思社やPHP系の「日本の誇り」的勇ましい書籍にまぎれ込ませてあるのは、書店員氏一流の諧謔なのであろう。ニヤニヤ楽しませてもらった。
上記の文章は、著者の早川タダノリが自身のブログに掲載していた、本書刊行にあたっての一文である。
が、著者の本音は、おそらく本書のあとがきにあるのだろう。
戦後65年になっても、自国の加害責任に真摯に向き合うことなく、安易な戦争擁護論が蔓延する社会風潮に、厳しい警告を発しているのである。

この本を読んで、私は塩野七生のコラム集「サイレント・マイノリティ」の一節を思い出した。
全体主義について、塩野は次のように述べている。

「(私が全体主義を嫌うのは)馬鹿げていてこっけいで、やりきれない気分にされるからである。

 私はこの人と政治上の意見を同じくしないが、イタリアの小説家モラヴィアがこう書いていたときには、心から同感だった。

 彼がデビューしたての頃は、イタリアはファシズム政体下で、小説といえども、公的機関による検閲を受けねばならなかった。文部省内のその方面の委員会は、幾人かの外部から選抜された、いわゆる忠誠なるファシストで構成されている。モラヴィアの作品は、彼らのまないたにのるたびに、あらゆる「欠陥」を指摘されたあげく、つっかえされるのが常であった。

 モラヴィアはいう。自分の作品が、芸術的に下手である、といわれるのならわかる。それも、検閲する人々に、そういう方面をわかる感覚の持主がいて、その人たちによって自分の作品が反対されるのならば、まだ我慢ができる。ところがそうではない。委員たちのほとんどは、文学的才能もないくせに文学をこころざしたことのある人であり、しかも、その世界では成功できなくて、現在は中学の教師でもしている人々なのだ。彼らが、自分の作品にケチをつけてくる。彼らの月並みな頭で判断して、ケチをつけてくる。これにはなんとしても我慢がならなかったのだそうだ。

 まあ、全体主義とは、右のファシズムにかぎらず左でも、このようなものである。諸事全般にわたって、このようなものである。私も、悪人であっても能力のある者に支配されるのならば我慢もするが、善人であっても、アホに支配されるのは、考えるだけでも肌にあわが立つ。」


が、これは全体主義の本質について半分しか述べていない。
ここで最大に問題にすべきなのは、「考えるだけでも肌にあわが立つ。」ことが何らの批判にもさらされず、そして、それに逆らえないことなのである。
全体主義では「個人は全体を構成する部分であるとし、個人の一切の活動は、全体の成長・発展のために行われなければならない」(三省堂)とされる。そこには、批判の自由の余地はない。

「神国日本のトンデモ決戦生活」は、ただただ、笑うために広告チラシや雑誌が集められている。
無論、笑えるだけ笑えばいい、そんな本である。

ただ、当時は笑える自由すらなく、やりきれない気持ちをぶつける場すらない社会だった、ということに思いが至り、これだけ情報が自由に手に入る今ですら、「トンデモ決戦生活」と大差ない言説を垂れ流す人々が数多く存在するという現実に直面すると、気持ちが重くなる。
そんな見方も出来る本だとも思うのである。

本書を読んで、自分がいわゆる「トンデモ決戦生活」を笑い飛ばせる社会に生きている幸運に感謝するとともに、この曲々しい自由社会のささやかな守り手として何かしらの行動の範を示し続けていきたいと思った次第である。

日本社会は、戦後65年目のプロパガンダを克服できるのだろうか?
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by foresight1974 | 2010-08-15 15:29 | 9条問題

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